<金口木舌>疎開児童の切なさを胸に


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 熊本地震の震源域となった「日奈久断層帯」の文字を見て胸を痛めた人もいたはずだ。熊本県の旧日奈久町(現八代市日奈久)は戦時中、沖縄からの学童疎開の受け入れ地であった

▼日奈久は温泉街で知られる。1944年8月以降、15校の児童約千人が町内22カ所の温泉宿に分宿した。これほど大勢の児童を受け入れたのだから町の雰囲気は一変したのではないか。食糧事情も厳しかったはずだ
▼疎開地にたどり着けなかった児童もいた。米潜水艦の攻撃で沈んだ対馬丸の犠牲者である。別の船で運ばれた荷物だけが駅に届いたという。日奈久は対馬丸の悲しい記憶を呼び起こす地でもある
▼「ヤーサン、ヒーサン、シカラーサン」は九州各県に疎開したかつての児童の語り草である。ひもじくて、寒くて、寂しい。親元を離れた暮らしは切なかったに違いない。そんな児童を支えたのが地元住民だった
▼八代市も地震の甚大な被害を被った。19日夜の時点で3809世帯11274人が避難生活を送っていると市のホームページは伝える。子どもや大人が空腹と寒さに苦しみ、不安な夜を送っている。不気味な余震は今も続いている
▼紙面やテレビが報じる被災者の姿に接し「ひもじい、寒い、寂しい」と涙に暮れた72年前の幼顔を思い出す人もいよう。この窮状を放ってはおけぬ。沖縄だからこそできる支援を考えたい。