<金口木舌>「大人」の責任とは


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 休日はうれしいが、早く大人になりたかった。幼い頃、「こどもの日」を迎えるたびにそう思った。だが今、40歳を過ぎても、果たして子どもたちに胸を張れる「大人」になれたのか心もとない

▼法律上の成人は20歳だが、近年、大人の責任が生じる年齢は早まる傾向にあるようだ。2000年の少年法改正で刑事処罰の対象は16歳以上から14歳以上になった。今夏の参院選からは選挙権が20歳以上から18歳以上になる
▼それに伴い昨今、主権者教育の重要性が叫ばれている。市民と政治との関わりを教えるのが趣旨だが、そもそも国民が政治の主役という自覚が前提だ。政府の権力に勝る主権者としての責任も問われる
▼しかしこの国では、一内閣の憲法解釈変更で集団的自衛権の行使が容認された。続く新安保法制の成立過程でも国民的議論に至らず、「主役不在」に不満の声が上がった。主権者としての大人が試されている
▼文豪・太宰治は「大人とは、裏切られた青年の姿である」と説いた。純粋な青年期に、社会や人に裏切られ、純粋さを失った姿を彼は「大人」と呼んだ。だが政治家が国民を裏切る世の中だけは勘弁願いたい
▼県内でも、米軍普天間基地の移設先を巡り「県外」から「辺野古容認」に変更した政治家の“裏切り”がある。それを許すか、許さないか-。子どもたちは大人の背中を見ている。