<金口木舌>沖縄研究偉人のまなざし


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 中学生時代は貧しく、成績も芳しくなかった。入学から約1年半後、家計が苦しくなり退学する。そんな失意のどん底からはい上がり、研さんを積んだ

▼おもろさうし研究に多大な業績を残し、戦後は沖縄人連盟会長や沖縄文化協会会長を歴任した仲原善忠氏は青年期、進学を断念する挫折を何度も味わった。その苦難を乗り越え、教師となる
▼沖縄研究者として著名な仲原氏は、教師としても優れていた。東京の私立成城学園では7年一貫教育で受け持った生徒28人のうち、東大9人、京大8人、東北大3人、九大2人など、ほとんどを有名大学に送り込んだ
▼教え子の中村哲氏は法政大総長になり、法大に沖縄文化研究所を設立した。加藤一郎氏は東大総長になっている。しかし1939年、第2次世界大戦勃発が転機になり、仲原氏は常勤教師を辞め非常勤となる
▼理由は「軍国教育の台頭で専門の地理・歴史教育が正確に教えられなくなったから」である。非常勤となったのを機に沖縄研究に没頭する。伊波普猷氏や東恩納寛惇氏ら沖縄研究の大家と交流した
▼その仲原氏の書簡や日記、写真、原稿などが大量に見つかった。詳細な分析はこれからだが、沖縄研究の偉人が戦前戦後の沖縄にどう向き合ったか、興味深い。有能な教育者でもあった氏のまなざしは、沖縄が向かうべき将来に大きな示唆を与えるに違いない。