<金口木舌>「ニッポン」の先に


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 「うるくニッポン」という言葉を一度は聞いたことがあろう。「小禄は日本か」という問いに「電気ぬちかとーれ日本やさ」と返す珍問答だ

▼「電灯がつくので小禄は日本だ」というのも不思議な話。小禄村長、立法院議長を歴任した長嶺秋夫さんは自著で「首里、那覇人の地方(田舎)に対する差別感が漂っていたのは否めない」と回想する。今の若者はこの言葉に差別を感じるだろうか
▼沖縄に電灯がともるのは1910年。ウチナーンチュは電灯を求めた。12年9月18日付本紙は「需要家数3400余戸」と報じた。「ニッポン」を実感したのは小禄だけではない
▼今年2月22日付の本紙連載「ウィルソンが見た100年前の沖縄」で、1917年3月の那覇市垣花の写真を紹介した。赤瓦屋根の家屋が並ぶ集落に電柱が立っているのが分かる。沖縄が日本へ同化する兆しを見るようだ
▼写真を凝視すると、畑から集落へ通じる道の途中に3人の子どもが地べたに座っているのに気付いた。日だまりの中で輪になって遊んでいるらしい。ふと思う。3人は沖縄戦を生き延びただろうか
▼写真の子どもたちも皇民化教育の中で「日本人の自覚」を深めたであろう。その先に戦場があった。ウチナーがニッポンになる過程を見詰め直す時だ。「教育勅語」を肯定するような答弁書を政府が閣議決定する時代なのだから。