<金口木舌>生きた証し


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 ひめゆり平和祈念資料館に沖縄戦で亡くなった生徒や引率教諭の遺影が並ぶ展示室が設けられている。鎮魂の空間である。ここを訪れた人は学徒8人の遺影がないことに気付くだろう。写真が見つからないという

▼遺影がある学徒と同様、名前と出身地や亡くなった時の状況、人柄を記した。「朗らかで明るい」「おとなしく物静か」。文字を目で追い、表情を想像する。遺影がないだけに悲しみも深い
▼1977年、犠牲となった学徒や引率教諭のアルバムを作るため、同窓生は犠牲者の顔写真を集めた。作業は難航したようだ。写真の提供を躊躇(ちゅうちょ)する遺族もいた。同窓生もつらかったに違いない
▼引率教諭だった仲宗根政善さんの77年9月の日記に「ある母親は写真をかすことをかたくなにこばんだ。母は、自らの生きた娘にあいたいのである」とある。遺族の心痛、生き残った者の苦悩がここに凝縮している
▼遺影や遺品は亡き人を偲(しの)ぶよすがとなる。沖縄戦犠牲者の場合、それが圧倒的に足りない。地上戦で失われたのだから。犠牲者の多くは遺骨の行方も分からない。生きた証しすら奪ったのが沖縄戦だった
▼米軍の攻撃で命を落とした朝鮮人の墓標が本部町健堅にあった。その写真を見た遺族は何を思うだろうか。日本名に改められた名を記す墓標は生きた証しになるのだろうか。遺族の嘆きが聞こえてくる。