<金口木舌>口で食べる幸せ


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 文豪カフカの『変身』は、一夜明けると虫になった男を描いている。免疫学者の多田富雄さんは、自身が脳梗塞になった直後の状態をこの小説に例えている

 ▼右半身や言語に重い障がいが残り、食べ物を飲み込む嚥下障がいにも苦しんだ。ミキサーですりつぶした食物を3カ月ぶりに、言語聴覚士の立ち会いで飲み込む。「食の喜びなんかない…ふと柚子の香りがすると、涙が出るほど感動した」
 ▼多田さんはリハビリを続け、声を失いながらも精力的に執筆した。学者の目でまひの残った身体を子細にとらえ、患者の目で心の機微と向き合った。国がリハビリ日数の制限を打ち出した際には不当性を世に訴えた。リハビリは単なる機能回復ではない、「人間の尊厳の回復である」と
 ▼先日、嚥下障がいがある患者をリハビリ指導する認定看護師を病院で取材した。脳梗塞を患った男性が甘いゼリーを飲み込む練習をしていた。食べることは生きること。笑顔がそう語っているようだった
 ▼1度失った機能を少しずつ取り戻す。摂食・嚥下障がいを専門とする認定看護師が担うのは、患者の生きる力の回復にほかならない。全国に約370人いるが、県内にはまだ1人しかいない
 ▼口で食べる幸せを実感できる高齢社会でありたい。これを支える人材育成など医療体制の整備が急がれる。人間の尊厳を守るために。