<金口木舌>倉敷に生まれたユートピア


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 1955年7月31日の本紙夕刊に「廿(にじゅっ)世紀の白昼夢 今様ユートピア探訪記」という見出しが躍った。記事は当時の越来村倉敷で見つかった行政権も及ばない集落の話で、記者の潜入ルポという趣がある

▼未知の集落を訪れた記者が見たのは、グアバやパパイア、パイナップルが豊富に実る一大果樹園とたくましい入植者の姿だった。「まるで外地の移民地を思わせる風情」と伝える記事は読者を不思議な楽土へと誘う
▼集落は8世帯で、那覇や島尻から入植したという。敗戦から10年という時代を反映してか日本軍の残兵のうわさも飛び交い、コザ署も調査に入った。戦争の記憶はまだ薄れていない
▼沖縄戦とその後の米軍の土地接収で旧住民が散り散りになった倉敷を開拓する入植者は「戦争の苦しみを受けて生きるためにやって来た」と語る。ユートピアは戦争被害と米軍統治の産物だった
▼ユートピアの結末は定かではないが、61年に倉敷ダムが建設されるころまでに入植者はこの地を離れたのだろう。戦前の旧住民も帰郷の可能性が断たれた。開拓の夢と帰郷の願いはダムの湖底に眠る
▼人生の終焉(しゅうえん)を告げる葬祭場や経済活動の最終章と呼べる廃棄物処分場がある土地に、戦災からはい上がろうとした人がいた。あすから始まる沖縄市平和月間を前に、58年前のユートピアを心にとどめておきたい。