<金口木舌>短命だった「コザ村」で


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 「みなと村」をご存じだろうか。那覇港の港湾労務を管理するため、1947年5月に生まれた。現在の山下町、通堂町辺りに位置し、沖縄の復興を支えた。村長は國場組を率いた國場幸太郎さん

 ▼48年12月に本紙に載った劇場開設の予報が目を引く。「港湾作業の能率向上」「夜間通行防止」の開設理由に敗戦直後の空気を感じる。那覇市と合併した50年8月には8千人余が暮らした
 ▼「みなと村」より短命だったのが「コザ村」。56年6月13日に越来村から改称し、7月1日にコザ市に昇格するまで存在した。人口は3万人。米軍が「胡屋」を誤読して広まったという「コザ」を村名に冠した
 ▼本紙の社説はカタカナの村名を手厳しく批判した。いわく「自分たちの村の歴史の一つを手軽に棄(す)て去るにひとしいこのようなやり方は、末代の笑いものになろう」。後世の私たちは、特異な戦後文化の表裏を二文字に見る
 ▼3週間足らずのコザ村時代に、プライス勧告に反対する四原則貫徹住民大会が諸見小学校で開かれた。「基地の街」の抵抗だった。米軍によるオフリミッツも敷かれていた。いずれも歴史に名を残す出来事として記憶される
 ▼「コザ村」の公印が、今月末まで沖縄市の戦後文化資料展示室「ヒストリート2」で展示されている。手のひらに載る印鑑にも沖縄戦後史の断面が刻み込まれている。