<金口木舌>東恩納寛惇の憂い


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 東恩納寛惇は主著「南島風土記」で「八社の随一として著聞し為に一村の繁華を集め、主邑(しゅゆう)宜野湾を凌(しの)ぐ」と普天間のにぎわいを記した。硬質な文面ながら普天満宮を中心とした華やかな集落の空気を感じさせる

▼宜野湾の古老の語り草である「宜野湾並松」は「老松亭々(ていてい)として枝を交へ稀(まれ)に見る美観」と評した。「亭々」とは樹木が高くそびえる様子を指すのだと辞書を引いて知った。往時の松並木の姿を想像した
▼東恩納が描いた普天間は歴史の彼方にある。普天満宮の参拝道だった松並木も、日本軍による伐採と普天間飛行場建設で大半が姿を消す。沖縄の豊かな風土を戦争が壊してしまった
▼沖縄の地名を論じた「南島風土記」に米軍基地はない。歴史学者は郷里への哀惜とともに序文で沖縄戦に触れた。「平和郷を矜(ほこ)った沖縄一千年の歴史の上で、これほど惨酷な血の洗礼を受けた事は、曾(かつ)てない」
▼「洗礼」の後始末は終わらない。普天満宮に接するキャンプ瑞慶覧でドラム缶が見つかった。市教育委員会の文化財調査が掘り当てたのは歴史的遺構ではなく、ずさんな基地管理が生んだ残骸だった
▼日米地位協定を盾に基地内の環境浄化の責務から逃れる米軍と、それを放置する日米両政府の無策による現代の風土破壊を止めなければならぬ。「平和郷」喪失と向き合った碩学(せきがく)の憂いを思い起こす時ではないか。