<金口木舌>戦後史の接続詞として


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 文章を書いていて、接続詞の選択に迷うことがある。「しかし」にしようか「だが」が良いか。用法を誤ると文脈が変わり、多用すると文意が伝わりにくくなる。わずかな文字数だが、おろそかにはできない

 ▼舞台演劇で接続詞がひょいと顔を出した。うるま市民芸術劇場であった演劇集団「創造」の公演「でいご村から」でのこと。演出の幸喜良秀さんは、約2時間半の劇中に接続詞のような役を据えた
 ▼視力を失い、つえを突く男、浴びるように酒を飲む女。米軍基地から物資を盗む「戦果アギヤー」の男や物乞いの女もいる。悲嘆と混乱が渦巻く敗戦後の村に突然現れ、物語の節目をつなぎ留める
 ▼演ずるのは劇団を長年支えてきた役者たち。2、3分の出演時間で、地上戦の惨状と戦後の苦しみを一身に背負う人物を表現した。演出家が投じた接続詞は観客の目をくぎ付けにする
 ▼現実の沖縄にも戦争で心身に傷を負い、苦悩の戦後を生きる人々がいる。その存在も、戦後史の断面に屹立(きつりつ)する接続詞のように見える。それも戦争体験の風化にあらがう逆接の接続詞として
 ▼集団的自衛権の行使容認をもくろむ為政者たちが、憲法解釈や最高裁判決を読み替えようとしている。沖縄の戦争体験に照らしても許されぬ歴史の改ざんではないか。沖縄から「しかし」と立ちはだかり、それに続く言葉を紡ぐ時である。