<金口木舌>「もしも」と問う場から


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 歴史に「もしも」は禁物だという。それでも毎年この時期になると、一つの仮説にこだわってしまう。「沖縄戦で日本軍が本島南部に撤退しなければ」という問い掛けである

▼首里で戦闘が終わっていれば、南部に逃れた住民は戦渦に巻き込まれずに済んだであろう。戦後まとめられた多くの戦史は南部撤退を選択した日本軍の愚行を批判する。「もしも」の問いは尽きない
▼首里城地下の陣地壕で、32軍司令部が軍幹部の協議を経て南部撤退を決めたのは1945年5月22日。本土決戦の先延ばしを意図した持久戦の継続が理由だった。県民の生命を左右する作戦を主導したのは八原博通高級参謀
▼敗戦から27年後の手記で八原氏は軍中央の攻勢要求を批判しつつ、持論だった戦略持久戦が遂行できれば「はるかにもっとよく戦えた」と抗弁した。元高級参謀が固執する「もしも」は住民の生命を軽んじる軍の論理そのものだった
▼安倍政権は集団的自衛権の行使容認へとひた走る。お題目の「積極的平和主義」は県民・国民の生命を軽んじていないか、立ち止まって考えたい。その時、県民に犠牲を強いた69年前の軍決定を厳しく問う姿勢が生きてくる
▼「もしも」と問い掛けても歴史は変わらないが、再び悲劇を起こさぬための足場を築く。「もしも」と問う場から新たな歴史を切り開くことができる。今ならまだ間に合う。