<金口木舌>「日本的責任論」のつけ


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 「過ちては改むるにはばかることなかれ」。自らの行為が間違ったと分かれば、率直に認め、改めることこそ誠実な姿だ。論語はそう説いている

▼では「責任はある」と言いながら、処分に問われない日本サッカー協会幹部はどうだろう。日本代表監督を八百長疑惑で解任したのはいいが、そうした人物を選んだ側の責任はどうなるのか
▼うやむやにしたままでは同じ過ちを繰り返さないか、というのは誰しも思うところだ。「Jリーグのクラブなら社長、強化担当者は間違いなく首になる」(13日付25面)という見方は当然だ
▼こうした責任の曖昧さ、問題の先送りは日本特有のものか。敗戦必至といわれながら決断を引き延ばした結果は沖縄戦の悲劇だった。バブル経済で発生した不良債権処理を先送りしたことで「失われた10年」といわれる低迷期を招いた
▼判断の誤り、問題の先送りに対して、日本人はしっかり責任を取ってきただろうか。責任の所在をうやむやにする日本サッカー協会の事なかれ体質は日本的な「責任の取り方」を象徴している
▼事はスポーツに限らない。原発の放射性廃棄物の最終処分はどうするのか、再稼働に向けて山積する課題に国が責任を持つ姿勢は見えない。借金大国とやゆされる財政もそうだ。誰しもつけは次世代に回したくない。だからこそ「責任論」を真剣に考えたい。