<金口木舌>戦時下の新聞


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 70年前の5月25日、首里城の第32軍司令部近くの壕で新聞を出していた沖縄新報が発行を停止した。壕内は湿気で鉛筆もざら紙ももろくなり、記事もなかなか書き進められない環境だったそうだ。今のIT時代からは想像がつかない

 ▼沖縄新報は開戦前の1940年、県警察部の指導で琉球新報と沖縄朝日新聞、沖縄日報の3紙を統合し創刊された。国が1県1紙の新聞統合を進めていた時代の話だ
 ▼米軍上陸後の紙面は「戦果」で埋まった。県庁や警察の壕に取材に行けば「戦争美談」が集まり、知事コメントも「県民激励」に終始した。本来の「新聞」の機能は消えていた
 ▼戦争準備の様子などを取材した仲本政基さんは、那覇市史の中で「記事は全て戦意高揚を旨としなければならなかった」と述懐している。戦後、当時の記者たちは「戦争のお先棒を担いだ戦犯意識は今もある」などと悔いた
 ▼そんな記者も沖縄戦で犠牲になった。那覇市若狭の「戦没新聞人の碑」には沖縄新報の12人と毎日、朝日の2人の14人の名が刻まれている。あらためて戦争のためにペンを握らない誓いを込め、ことし5月17日に碑前で慰霊の集いが催される
 ▼隣国の言動に威勢のいい言説が目立ち、教育勅語を暗唱する園児に戦争体験者が危機感を募らせる現代。戦後70年のいま、「新聞」が何を伝えるべきか考え直したい。