<金口木舌>日付のない死


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 沖縄戦の特集を担当する同僚の話が心に残っている。10・10空襲から日米両軍が降伏調印した1945年9月7日までに亡くなった県出身者数を県に問い合わせた。「平和の礎」のデータを基に担当者が示した数字は「7014人」

▼あまりに少ない。事情を聞くと、死亡日が分からない場合は期間を区切って集計すると犠牲者数から抜け落ちてしまうという説明だった。キーワードを入力しても検索できぬネット情報のようだ
▼条件が合わず出力できないパソコン内のデータに沖縄戦の一断面を見た思いがする。礎に刻銘された県出身者は約15万人。そのうち亡くなった日付が正確に分かっている犠牲者は一部にとどまる
▼亡くなった場所が判然としない場合もある。名前すら分からない犠牲者もいる。それは姓に添える形で「長男」「孫」と礎の刻銘板に刻んでいる。日付や地名、人名が分からない死の集積が沖縄戦の実像である
▼そのような死を増大させた日付と地名、責任者の名前は戦史に刻まれている。70年前の5月21日、首里城地下の司令部壕に集まった32軍首脳が作戦を協議する。牛島満司令官は翌日、戦闘の継続と南部撤退を決めた
▼軍の無謀な撤退が無辜(むこ)の民を死に追いやった。取り返しのつかない過ちであり、罪である。このことを記憶にとどめておきたい。集計からこぼれ落ちる犠牲者を忘れぬためにも。