自殺研究のため英ケンブリッジ大大学院に留学したのは1992年秋。博士課程は最短3年だが、初年度は「仮登録」とされ、1年後の試験に受からないと終わりになる。駆け出しの精神科医だった私は、精神医学全般を再び懸命に学んだ。
翌年、試験に合格した私には選択肢が二つあった。北アイルランドで進行中の心理学的剖検調査に加わるか、日本に戻り心理学的剖検調査を行うか。遺族の協力が得にくいと考えられた日本では、正式の調査は未実施だった。「日本初の調査をやってみたら?」。指導教授からこう促された。
前回も触れたように、欧米の調査では自殺者の90%以上が、何らかの精神疾患と診断できる状態で最期を迎えたと分かっている。一番多いのがうつ病。理性を失うことはないが、非常に強いマイナス思考や自責感、そして「心の視野狭窄(きょうさく)」と言われる心理状態の下で自殺に至る。自殺衝動をもたらす精神疾患は他にもあり、心の病気が自殺の陰にある、との見方が主流だ。
一方の日本。80年代半ば、フランスの文化人類学者モーリス・パンゲは「自死の日本史」を著し、「日本人の自殺は意志的であり、根底には切腹文化がある」と指摘した。日本で生まれ育った私にも共感できる部分が多かった。この見方は根強く、「日本では理性的な自殺が多い」と考えられていた。でも本当にそうだろうか?
この命題に取り組むべく94年、東京で心理学的剖検調査に挑んだ。都監察医務院が保存する都内の全自殺データから特定地域の症例を抽出したかったが、プライバシーの問題で許可されなかった。ただ私が所属していた東京・板橋の帝京大病院に運ばれた症例の閲覧は認められ、次善の策として、91年1月から3年間に同病院に搬送された自殺者全93例を調べた。
欧米では遺族の協力率はほぼ100%となるが、この調査では46%。手紙や電話で協力をお願いしたが、きついお叱りを受けることもある、つらい調査となった。
遺族に聞き取りができない場合は、さまざまな手がかりを基に、精神科の受診歴や言動など、故人の生前の情報をできる限り集めて診断した。その結果、「可能性が高い」にとどまる8例も含め、89%が自殺時に何らかの精神科の診断がつく状態だったと分かった。日本でも「理性的な自殺」は少なく、欧米と同様、大多数が精神的変調を来した末に自殺していることが判明したのである。
(日本自殺予防学会理事長)
(共同通信)