欧米ではうつ病が重いほど自殺の危険は高いと言われている。この病気は症状の一つとして、死にたいと思う「希死念慮」が出る。これは洋の東西を問わない。しかし、実際に自殺行動に移すかどうかには社会文化的な要因が大きく関与する。
キリスト教圏の国々では幼い頃から聖書に親しみ、「自殺は悪いこと」と教えられる。そうして育った人は自殺に対する「心のハードル」が高くなり、それを越えて死を選ぶには強いうつ状態を要すると考えられる。
日本人はどうだろう。自殺へのハードルが低いという私の仮説は以前にも書いた通りだ。切腹文化の影響は大きいと思う。いまだに「(責任を取って)腹を切る」という表現が日常会話で使われるのがその証拠だ。
宗教の影響も大きい。自殺を禁じたキリスト教と違い、仏教や神道は明確に禁ずる教義を持たない。仏教は自殺を礼賛まではしていないが、輪廻(りんね)転生や浄土思想の表層的な理解が死を誘う危険性を秘める。
この社会文化的な素地が、そこで生まれ育った人々の自殺へのハードルを低くすると私は考えている。だから、日本では軽いうつ状態の適応障害でも自殺に至りやすく、結果として自殺の激増現象が起きてしまう。
しかし、日本文化を否定するつもりは毛頭ない。宗教を含め、日本の伝統文化には素晴らしい美徳が数多くある。それを認めた上で強調したいのは、命を大事にする思想を早い段階から人々の意識に根付かせる必要があるということだ。その手段として学校教育が非常に重要だと思う。
日本自殺予防学会の先達たちは1970年代から、学校での自殺予防教育を提言してきた。でも「自殺」という言葉への現場の拒否反応が強く、実現しなかった。
一方、聖路加国際病院の日野原重明先生(故人)や絵本作家の夢ら丘実果さんらは「いのちの授業」を全国の小学校で草の根的に行ってきた。「自分の命を大事に」「他人の命を大事に」「生き物の命を大事に」。これらは自殺予防だけでなく、いじめ予防にもつながる大切な教えだと思う。
2006年にできた自殺対策基本法のおかげで、学校現場でも「SOSの出し方」など自殺予防教育がようやく広がってきた。人の思想信条に法律や教育はそぐわないとの反対意見も耳にするが、メンタル不調の介在が多い自殺の実態を教え、その適切な対処法を示すことは、思想信条を超えた真の教育課題ではないだろうか。
(日本自殺予防学会理事長)
(共同通信)