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門中墓の日本兵に追われる 新城喬さん(5) 捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


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富盛集落から見る八重瀬岳

 沖縄戦東風平村(現八重瀬町)富盛の集落に米軍が迫り、新城喬さん(91)=北中城村=の家族5人は南部への避難を決めました。1945年5月末から6月にかけてのことです。

 向かった先は八重瀬岳です。山の南側にある門中墓に避難するつもりでした。ところが、そこには日本兵がいました。

 《わが家族5人も他の親族2家族と南部へ行くことになりました。八重瀬岳の南にある一門の門中墓がどうなっているか、2、3人で見に行きました。

 しかし、墓を見に行った人らは「墓は既に友軍の兵士たちが入っており、『たとえ君たちが墓の主であっても、住民を入れるわけにはいかないので、帰れ』と拳銃を突きつけられたので、命からがら逃げてきた」と言ったのです。》

 報告を受け、新城さんらはがくぜんとします。「友軍が住民を助けるどころか、かえって銃を向けたという話に、皆はがっくりとしました。親たちは、自分たちに銃口を向けて追い返した日本兵をどう思ったでしょうか」

 八重瀬岳や与座岳は日本軍の独立混成第44旅団や第24師団の拠点でした。八重瀬岳には第24師団の野戦病院が置かれ、負傷兵が運ばれていました。6月中旬、八重瀬岳、与座岳一帯は激戦地となります。

 避難場所を求めて、新城さんら3家族は摩文仁を目指すことにしました。