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「助けて」と叫ぶ兵隊の姿も 新城喬さん(6) 捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


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現在の糸満市摩文仁の集落

 新城喬さん(91)=北中城村=の家族は米軍の侵攻から逃れ、東風平村(現八重瀬町)の富盛から摩文仁村(現糸満市)摩文仁に向かいます。

 《米軍の飛行機の音が近づくと、道ばたの溝に伏したり、草陰に隠れたり、暗渠(あんきょ)に逃げたりしながら南へと逃げました。摩文仁へ近づくにつれ、その途中には、多くの住民や兵士たちの死体がころがり、中には親子や家族と思われる人たちが折り重なって息絶えていました。おそらく、機銃掃射で全滅したのでしょう。》

 摩文仁に向かう頃は梅雨のさなかでした。「毎日、雨が降っていて、道は泥んこ。倒れている兵隊がいて、またいで歩くのに躊躇(ちゅうちょ)しました。『助けてー』と叫ぶ兵隊もいました」と新城さんは語ります。飛び散った砲弾の破片で一瞬のうちに死んでいく人々も見ました。

 移動中は、わずかな食料で命をつなぎました。

 《夜は岩陰や橋の下で寝て、その時に非常食のはったい粉と黒砂糖を混ぜて食べるのです。背負わされた手製のリュックには少しの玄米とはったい粉、黒糖です。火が使えないので、玄米はそのまま食べました。

 はったい粉の他に食べられるのは、焼けたサトウキビと生の芋を見つけた時で、まさに飢えとの闘いでもあったのです。》

 泥でぬかるむ道を黙々と歩き、新城さんは摩文仁の民家にたどり着きました。