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海岸で餓死寸前に 新城喬さん(8) 捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


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現在の大度海岸。住民と日本兵が岩陰に隠れていた

 摩文仁村(現糸満市)摩文仁の集落から米須に向かっていた新城喬さん(91)=北中城村=の家族5人は途中の大度海岸にたどり着き、海沿いの岩陰に隠れます。母トシさんは末妹をおぶって、新城さんは食料の入ったリュックを担いでの移動でした。

 海岸には多くの避難民、日本兵がいました。海上には米軍の艦船が並んでいました。

 《海岸の岩陰までくると、見渡す限り海上に軍艦がありました。時折、砲弾を撃ち込む音とともに光が見えました。民間人の服装をした兵士らも、避難住民に交じってやってきました。軍服のまま、サトウキビ畑や草むらに隠れている兵士もたくさんいました。

 海岸には白砂の上に、波に洗われたり、日に焼けたりして真っ黒になった、水ぶくれの兵士たちの死体がころがっていました。》

 米軍が艦砲弾を撃ち込む時間は決まっていました。「朝の数時間と夕方は撃ってこない。兵隊が休んでいるのでしょう」と新城さんは話します。

 米軍は艦船から投降を呼び掛けました。ビラも大量にまきました。「放送は1日に1回ありました。ビラは多かったですね。『出てきなさい』『住民には危害を与えません』というような内容でした」

 食料は底をつき、新城さん家族はこのまま飢え死にするところまで追い込まれていました。