有料

創立時の知念高校に入学 新城喬さん(10) 捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
現在の南城市玉城仲村渠の集落入り口

 摩文仁村(現糸満市)の大度海岸で新城喬さん(91)=北中城村=の家族は米兵に捕らわれました。時期について新城さんは「正確には分かりませんが、(1945年)6月22日ごろです」と話します。

 《生き残りは、ほかにいるのだろうか。自分たちだけだろうか。海岸づたいに全員が手を挙げながら、ぞろぞろと出て行きました。中には白いハンカチを振る者もいました。》

 新城さんらはトラックに乗せられ、玉城村(現南城市玉城)百名の収容所に行きます。百名収容所の開設は45年6月5日です。百名で数日過ごした後、隣接する仲村渠に移動しました。「仲村渠ではテント暮らし。随分長いこといました」

 6月16日には仲村渠一区の下田屋取で児童を集めて教育が始まり、7月16日に百名初等学校が開校しました(「南城市の沖縄戦・資料編」)。新城さんは百名初等学校の開校を覚えています。「学校に行きたい人は行きなさい」という呼び掛けがあったといいます。

 この年の11月16日、現在の南城市知念志喜屋に知念高校が創設されます。翌月、知念高校は百名に移動し、46年4月には南城市玉城親慶原に移ります。親慶原一帯は一時、米軍政府や沖縄民政府が置かれ、戦後沖縄の行政の中心地となりました。

 新城さんは創立時の新入生として親慶原にある知念高校に入学しました。