日本軍が駐屯するようになった具志頭村(現八重瀬町)後原集落では食料を軍に供出するようになります。諸見里ユキさん(90)=八重瀬町=は「班ごとに野菜やイモを集めて、兵舎に持って行きました」と語ります。
せっかく作ったお汁を誤ってこぼしてしまい、困り果てていた炊事当番の兵士を助けたこともあります。
「母が急いでお汁を作って兵士に持たせました。日本軍に行った息子のことを考え、かわいそうに思ったのでしょう」。長兄の真秀さんは1939年の徴兵で沖縄を離れていました。
1944年10月の10・10空襲で那覇の大半が焼失しました。
《真っ赤な炎や真っ黒い煙が見えた。那覇で焼け出された人たちが、米や野菜、芋などを求めて田舎に回ってきた。お金を払ったり、着物と交換したりしていた。》
諸見里さんは空襲で家を失い、後原にやってきた那覇の避難民を覚えています。「かわいそうでした。知人を頼って芋や豆を買いに来ているんです」
10・10空襲の被害はなかった後原でも防空壕造りを急ぎました。「最初は屋敷内に防空壕を造りました。庭に穴を掘って、その上に畳を置いて、土をかぶせました。しかし、これではだめだということで、もっと深く掘りました」
45年に入ると、頻繁に空襲警報が出るようになり、壕への避難が増えていきます。