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後原に残るか、逃れるか 諸見里ユキさん(4) 捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
現在の八重瀬町後原

 米軍と日本軍の激戦が続く中、諸見里ユキさん(90)=八重瀬町=の家族は具志頭村(現八重瀬町)後原の壕で避難生活を続けていました。

 5月中旬以降、米軍は本島南部への侵攻を進め、後原も安全ではありませんでした。米軍は投降を呼びかけるビラをまくようになりました。諸見里さんはそのビラを拾いました。

 「米軍は『出てきなさい』『殺しません』ということを日本語で書いたビラを飛行機から落としていきました。子どもたちは夕方、ビラを拾いにいくわけです。うそを書いていると思って、あざ笑っていました」

 空襲が激しくなり、後原の人々もさらに南の方へ避難するようになります。それでも父の真信さんは後原にとどまるつもりでした。しかし、次兄で当時15歳の真忠さんは避難を主張します。6月上旬のことです。

 《父は「死ぬときは家族一緒がいいから逃げない。一人残されたら生きていけないから」と避難しなかった。しかし、次兄は父の言うことを聞き入れなかった。》

 諸見里さんは「大工だった父は南部一帯を回っていたことから『逃げても隠れるところはない。穴を掘るところがない』と考えていました。兄は『ここにいては危ない』と言い返しました」と語ります。

 後原に残るか、南へ逃れるか。壕の中で親子は対立していました。