砲弾や銃撃で亡くなった母や伯父を葬った翌日、諸見里ユキさん(90)=八重瀬町=が隠れていた具志頭村(現八重瀬町)後原に米兵が現れます。
《自宅の焼け跡に立っていた父が米兵から声をかけられた。その時、銃で撃たれると思い、必死に壕の中に足を切断された娘がいるから助けてほしいとジェスチャーで訴え、壕の中を見せた。》
米兵は右足を失った姉ハルさんを運び出し、残りの家族は玉城村(現南城市玉城)の百名収容所に運ばれます。
《現場を確認した後、数名の米兵が板を持ってきて三女を担ぎ、壕から運び出し、家族はみんなジープに乗り、百名の収容所に移動した。しかし、三女は収容所で亡くなった。》
家族はさらに知念村知念(現南城市知念字知念)へ移ります。
《空き家があれば誰でも入っていいと言われ、百名から知念の空き家に移ったが、一軒の家に100人ほどの人が入っていた。畑の芋や野菜、壕の中の食べ物は誰でも食べていいという話があり、食料を探すため毎日、野山や海岸に出かけ、芋の葉や貝を拾いに行った。》
その頃、砂浜に集まる子どもたちを見かけました。「中学生が浜で授業をしていました。子どもたちを集め、砂浜に字を書いて教えていました」と諸見里さんは話します。
知念では半年ほど暮らし、現在の南城市玉城船越に移ります。