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ごみ捨て場の缶詰で生き延びる 諸見里ユキさん(8) 捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


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現在の船越小学校の周辺

 諸見里ユキさん(90)=八重瀬町=は知念村(現南城市知念)知念から玉城村(現南城市玉城)の船越に移ります。

 《知念での生活は半年ほど続き、その後船越で掘っ立て小屋を造り、半年生活した。近くには米軍のごみ捨て場があり、そこで缶詰を拾って食べ、軍服を拾って仕立て直して着る、そうして生き延びた。》

 諸見里さんは「知念に半年ほどいる間、生活は次第に落ち着いていきました。船越の家はかやぶきで、床はありませんでした」と語ります。

 船越は戦前、富名腰一区と呼ばれた地域です。「玉城村史」戦争記録編によると1946年1月以降、各地から転入者が相次ぎ、人口は一時8千人に達しました。転入者を収容するため仮小屋やテント張りの小屋が周辺集落や畑に建ちました。

 船越小学校(45年11月開校)には2千人余の児童が集まりました。諸見里さんは「船越にかやぶきの学校ができました」と当時のことを記憶しています。しかし、暮らしていくのに精いっぱいで、学校に通うことはできませんでした。

 戦争前の屋敷があった具志頭村(現八重瀬町)後原に戻ったのは敗戦から1年後のことです。掘っ立て小屋での生活を始めました。

 母や兄、姉を沖縄戦で失った諸見里さんは父と共に戦後の生活を立て直していきます。