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<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>98 地域と組踊(3) 上演なく伝承も


<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>98 地域と組踊(3) 上演なく伝承も 石垣市に伝わる組踊「伊祖之子」=2011年、石垣市石垣の宮鳥御嶽
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 前回の(2)で挙げた宮鳥御嶽における「雪払」の配役について、これ以前に石垣島で上演された可能性が全くないわけではない。八重博本『伊祖の子組』の末尾には、「此組躍の本は同治十四年亥八月/百姓村結願之時錦芳氏仮若文子/喜友名仁屋用方寄進之」とある。この記述は直接的に「伊祖の子」を上演したことを意味しないが、村の結願祭の時に、錦芳氏喜舎場用方 が書写した組踊本(ここでは伊祖の子組)を寄進したということを指す。同治十四年は光緒元年と同じく一八七五年である。宮鳥御嶽における「雪払」の配役と着付けが見られるのはこれより20年後の事例だ。「伊祖の子組」は別名が「雪払」であるので、この2作品は同じと考えられる。同治14年に組踊本を寄進していることは間違いないが、配役などの資料が見られないだけで、この時に上演(あるいは唱えだけを行った)したということも考えられないか。いずれにせよ、用方の書写した「伊祖の子組」は光緒21年の上演と無関係ではないと考えたい。

 しかしながら、現時点で地域における上演が資料によって確認できるのは、明治に入ってからである。先述のように、組踊本が伝承されておきながら、上演が確認できない地域があることを考えると、地域において組踊本が伝わることと上演がなされることを「=(イコール)」で結ぶことは安易に考えにくい。また、組踊本が伝承されている地域においては、地域に伝播(でんぱ)した組踊本の作品すべてが舞台にかけられたわけではない、ということも考えなければならない。

 以上から、組踊の地方伝播のタイプは大きく2種類に分けられることが指摘できよう。

(1)組踊本が伝播し、まつりなどで上演を行っている地域

(2)組踊本が伝播し、上演を確認できない地域

 ここでいう「上演」は過去に上演が認められ、現在は途絶えている地域も含まれる。多くの地域は(1)の事例に含まれる。また、上演だけが認められ、組踊本が存在しない地域はない。組踊は台本を持った芸能であることが、このような地域の組踊からも確認できるのである。

 (2)のタイプは、琉球文化圏を見渡しても事例が少ない。先に挙げた石垣島の例や、久米島に限られた例である。このような事例の多くは地方役人層が組踊本を書写し、学問として学んでいる、という例である。

 近世に組踊は先述のように王府儀礼に欠かせない芸能であり、首里・那覇の士族はいつ何時、組踊に関わるかもしれない状況だったため、稽古を怠らなかったのである。

 明治41年生まれの金武良章の話によると、首里の士族たちは日常的に組踊を稽古し、三線の稽古とともに素謡のように組踊の詞章を詠む、ということを行っており、その稽古は毎回熱を持ったものであったと回想している。金武良章の話は明治になってからの出来事であるが、その様子は首里城(または国王)への御奉公であったと語っていることから、近世にもこの事例と変わらない稽古が首里・那覇と中心に、地方役人層まで行っていたことが想像できる。

(鈴木耕太、県立芸大芸術文化研究所准教授)