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【寄稿】「街角の書店が静かに消えていく」 地元出版社の編集者が感じる地殻変動 <沖縄書店の変遷・文化の拠点のいま>上


【寄稿】「街角の書店が静かに消えていく」 地元出版社の編集者が感じる地殻変動 <沖縄書店の変遷・文化の拠点のいま>上 沖縄関係の書籍を一堂に集めたコーナーを設置する「沖縄県産本フェア」の様子=2007年10月、那覇市のリブロ・リウボウブックセンター
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 消費動向やメディア環境の変化、人口減少に伴い、全国的に書店の数が減り続ける中、県内でも同様の傾向が広がっている。5月末には、県内百貨店内に入る唯一の書店であるリブロ・リウボウブックセンター店が閉店する。本は「文化の拠点」であり、県民の生活とも密接に関わってきたと指摘する、ボーダーインクの編集者でエッセイストの新城和博さんに、県内書店の変遷について寄稿してもらった。


 パレットくもじ7階にあるリブロ・リウボウブックセンター店が、5月31日をもって閉店するという知らせが届いた時、ぼくはできあがったばかりの新刊を著者の元に届けてほっと一息つき、編集者としての心地良い疲れと安堵(あんど)感にひたっていた。

 「あのリブロBC店が閉店する?」

 文教図書の伝統を引き継いで、県内書店の中核を担ってきたリブロが…。正直、気が抜けてしまった。

 去年から今年にかけて、県内各地にある書店の閉店の知らせが相次いでおり、地域出版社として危機感は増すばかりで、これからどうすればいいのか思案している中での知らせである。青天の霹靂(へきれき)とでもいうようなショックと、ああ、こういう状況まで来ているのだなという諦めにも似た気持ちに陥った。これからできたての新刊をリブロBC店に納品し、これまでのように平積みにしてもらうことができなくなるのか、と。

アチコーコー

 沖縄の出版社の多くは、自分たちで書店に直接配本するか、地元の流通会社を通して配本している。その距離感の近さが「沖縄県産本」という名称にもつながっている。沖縄の出版が持つ多彩な特殊性を「文化の地産地消」という言葉で説明することがあるが、それは県内の隅々に数多くあった書店のそれぞれに「沖縄・郷土本コーナー」があるからだ。このように地元に関する棚が充実しているのは沖縄の書店の特徴であり、それを利用してきた読者の力でもあった。自分たちの文化を知るための本が、街角にまるで“アチコーコーのできたて豆腐”のように並べられている。「文化の地産地消」という口幅ったい理想論をつい言いたくなってしまうのは、その姿を出版人として、そしていち読者として見続けてきたからだ。

消費行動の変化

 日本全国で書店の数は減り続けている。最近の統計では、書店の数はピーク時の3分の2にまで減少しているという。沖縄でも同様な傾向にあり、地域の出版社に長年勤めているぼくは、体感として書店数の変動は感じていた。ピーク時で大体100店舗ほどの書店に納品していたのが、現在は50店舗ほどになっている。

 街角の書店が少しずつ静かに消えていく。そんな風(ふう)に感じたのはいつ頃からだろうか。1990年代までは、街角の小規模書店が閉店するところもあるが、新たに開店する書店や経営母体が変わり営業を続けるところもあって、その数は極端に減少することはなかったように思う。しかし県内の消費行動の変化に伴い、書店の形態の変化の潮流はあった。ぼくの個人的な記憶からさかのぼってみたい。

 那覇の開南バス停近くに住んでいたぼくは、平和通り周辺は小学生の頃から一人で遊びに行ける範囲で、特にみつや書店、安木屋、球陽堂には、出版社に勤めるようになった80年代後半以降も随分お世話になった。みつや書店と安木屋は中央商店街にある1階から3階までジャンルに応じたフロアがあり、国際通りにあった国際ショッピングセンター内の球陽堂は、1階の一般書籍フロアと2階の専門書コーナーが離れてあった。その他にも、国際通りは泉崎から安里に至るまで書店が点在していた。

 同じように県内各地の中央商店街の目抜き通りには、その地域を代表する書店があり、バス停や学校のそばに地域の人たちが立ち寄る書店があった。書店は人通りの多い街角のざわめきの中にあったのだ。

文教図書の役目

 中学生になり通学路の範囲が広がると、ぼくは泉崎、久茂地周辺の書店にも出入りするようになる。その中で、文教図書は別格の存在だった。

 米統治下の1950年に、沖縄の教職員会が中心となって設立した文教図書は、教科書や教材、文具、スポーツ用品の供給から始まり、時代の変遷とともに一般書籍販売も行う書店となった(『沖縄大百科事典』参照)。復帰後も、宮古、八重山などを含めた県内各地に支店を構えていた。その本店が、泉崎にあった。沖縄の官公庁のお膝元で、那覇のオフィス街ということもあり、1階のフロアは平日の昼間でも結構な人が出入りしていた記憶がある。3階建ての店舗敷地面積は県内最大だったのではないだろうか。特に「沖縄・郷土本コーナー」は1階のレジ近くに設けられ、県内随一の品揃(しなぞろ)えであった。県外から訪れた出版関係者に、沖縄の出版状況を知るために紹介するのは、文教図書と球陽堂の沖縄・郷土本コーナーの棚であった。

サブカルの拠点

 80年代後半になり、日本経済が好調でいわゆるバブル期の頃、国道58号、330号など主要道路沿いを中心に、郊外型書店のチェーン店が登場する。駐車場を完備した独立した店舗は広々として、書籍販売はもとより、ビデオ・CDのレンタルコーナーも充実していた。書店がさらなるサブカルチャーの拠点として沖縄でも機能するようになったのだ。ぼくが地域出版社で仕事をするようになった頃、こうした書店へも配本するようになるのだが、どうにか同世代に向けた若者向けの新しい沖縄の本を作れないかと模索していた。その時期に刊行したのが『おきなわキーワードコラムブック』(89年)である。今にして思えば、こうした店舗の客層とマッチしていたのかもしれない。

 文教図書は91年、県庁前の再開発により華々しくオープンした都心の複合大型商業施設パレットくもじ内の百貨店リウボウの7階に移動した。文教図書パレット店は書店としての販売床面積は縮小したが、沖縄・郷土本コーナーは健在で、沖縄の中核書店としての存在感は十分だった。同じフロアにはミニシアターや、ライブ、展示会が開けるイベントスペースもあり、新しいカルチャーを発信することになる。書店はそうした文化を反映し、発信する場にもなりえるのである。

 92年に刊行した『私の好きな100冊の沖縄』(まぶい組編)の前書きで、「郷土コーナーの存在とは、本屋における御嶽なのである。沖縄の本屋の御嶽ということは、どういう場所にコーナーが位置しているのかということでもわかる。だいたい、本屋の奥なのである」「訪れる人が少なくても、御嶽と郷土コーナーは存在するだけで、沖縄の人の心を結びつけているのである」と書いたのは、当時の文教図書店内の光景を見て思いついたことだった。

 (次回は7日掲載)


 新城 和博(しんじょう・かずひろ) 1963年生まれ、那覇市出身。ボーダーインク編集者、エッセイスト。主な著書は「来年の今ごろは ぼくの沖縄〈お出かけ〉歳時記」など。