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持ち出された戦利品 沖縄サミット機に調査開始 高安藤<返還の軌跡・異国に渡った文化財>上


持ち出された戦利品 沖縄サミット機に調査開始 高安藤<返還の軌跡・異国に渡った文化財>上 米国の美術館が収蔵する琉球王朝時代に制作された琉球漆器(2002年撮影)
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 沖縄戦で略奪された沖縄由来の文化財20点が今年3月、米国から県へ返還された。その中には、戦後現物が初めて確認された歴代琉球国王の肖像画「御後絵(おごえ)」4点も含まれていた。県や関係者は貴重な文化財の返還を喜ぶも、所在不明の文物はいまだ多数残されている。今回、約25年越しの返還実現に向けて尽力した在沖米国総領事館元広報・文化担当補佐官の高安藤さんに、返還までの経緯や今後の展開について寄稿してもらった。

 戦前、尚家にまつわる宝物は中城御殿(なかぐしくうどぅん)の敷地内の安全な場所に避難させていたことは、真栄平房敬先生が残した手記により明らかとなっている。避難させた文物は、国王や王妃の儀礼装束一式、中国皇帝御下賜の緞子(どんす)、御後絵約20点など多岐にわたる。

「おもろさうし」

 米国に渡った流出文化財を巡っては、1953年のペリー来琉百周年祭で、ウイリアム・T・デービス軍曹が「おもろさうし」や聞得大君に由来するといわれる「金銅雲龍文簪(こんどううんりゅうもんかんざし)」など約20点の文化財を、米大統領名で沖縄に返還したという前例がある。

 デービス氏といえば、(当時の)北谷村民や桃原小学校の学童たちに余暇を割いて英語を教えるなど、村民から非常に慕われた軍人であった。帰国後、デービス氏が村民から贈られた三味線をテレビで紹介したことが縁で、沖縄戦線にいたカール・スタンフェルト米海軍中佐が沖縄の貴重な歴史的・文化的遺産を中城御殿から持ち出し、米国の博物館などに鑑定を依頼していることが判明した。デービス氏は「おもろさうし」の所在を突き止め、米国務省を巻き込んで返還にこぎつけた。発見時、これらは全てスタンフェルトの手元にあった。

 返還された文化財は、中城御殿の側溝に避難させてあった「沖縄の宝物」の中に含まれていた。それまで持ち出された宝物の所在は全く分からないばかりか、手がかりも皆無だった状況から一変。「米兵が戦利品として持ち出したに違いない」との推測は、断定に変わった。スタンフェルトは帰国後に除隊し、ボストン近辺に住んで保険の外交員をしながら沖縄の文物を鑑定に出したり、売りさばいたりしていたことも徐々に分かってきた。

 この一件があったことも重なり、当時は多くの人がその他の文物もすぐに見つかるはずだと期待していたと思うが、実際は70年もの年月を経て御後絵が見つかり、今年3月にようやく返還が実現した。

琉米歴史研究会

 98年10月に海洋博覧会記念公園管理財団主催の「流出文化財に関するシンポジウム」が宜野湾市で行われた。私は聴衆の一人として出席し、そこで遅まきながら流出文化財について学んだ。戦利品だけでなく、購入品や寄贈品などとして合法的に流出した多くの沖縄の文物が、米国に収蔵されていることも分かった。

 シンポジウムを企画した琉米歴史研究会は、流出した文化財の返還に関する情報の収集や発信を広範囲かつ持続的に行っており、これからの返還にも大きく寄与すると思う。琉球王国時代の1456年に制作された現存する沖縄最古の梵鐘の一つ「旧大聖禅寺鐘」は、代表の喜舎場静夫氏らによる20年以上の交渉を経て、2015年に沖縄に返還された。この梵鐘はペリー提督がギフトとして米国に持ち帰ったもので、バージニア州の海兵隊学校に保管されていた。

米国務省の提案

 2000年7月に第26回G―8サミットが名護市の万国津梁館で開催されることになった。20世紀最後のサミットであり、日本初の地方開催でもあった。そのサミットにクリントン米大統領が出席することになった。何か文化的な企画を提案するよう米国大使館から在沖米国総領事館に要請があり、当時、総領事館の広報文化担当補佐官をしていた私は二つの企画を提案した。一つは中城御殿から持ち出された「沖縄の宝物」を1点でもよいから見つけ出し、クリントン大統領から沖縄に返還してもらうこと。二つ目は、米国にある琉球漆器の「里帰り展」を沖縄で開催すること。

G―8サミットで米クリントン大統領(後列右)らと記念撮影する高安藤さん(前列左)=2000年7月(提供)

 その実現のために領事や私は、県立博物館の館長や学芸員から情報の収集を行なった。県は1990年から5年計画で米国の主要な博物館・美術館にある沖縄の文化財の所在を確認していた。その時、ボストン美術館にも調査依頼をしたが、あいまいな理由で2度調査を断られたという。さらに、ボストン美術館が世界一を誇る日本美術コレクションを収蔵していることは有名な話だ。ボストン近郊に住むスタンフェルトが御後絵の販売目的で訪れたら、購入していたに違いないとの疑惑や憶測が県側にはあった。博物館から得た情報を米大使館や米国務省に報告した結果、提案実現のためにまずボストン美術館に焦点が向けられた。調査の結果、合法的に取得されたものか戦利品として持ち出されたものかは不明だが、ボストン美術館に琉球漆器コレクションが収蔵されていることが分かった。

 国務省はジャパンデスクの担当官を、ボストン美術館に実現可能かどうかの調査と協力依頼のために送っている。その担当官から「ボストン美術館から、琉球漆器コレクションの里帰り展は可能だとの返事があったが、諸々の準備が間に合わないということで断念された」と、私はワシントン出張中に直接説明を受けた。互いにため息をつきながら残念がった。

 ところが、国務省は二つの提案を「実現できずに残念でした」では終わらせなかった。2000年7月のG―8サミット直後に、国務省から総領事館に嬉(うれ)しい提案が届いた。領事と私は手をたたいて喜び、早速、県文化課を訪れ、その提案を伝えた。

 提案は、宝物の返還や展示はサミットに合わせて実現することはできなかったが、この件に関する米国政府の高い優先度を踏まえて、FBIやINTERPOL(インターポール)、博物館などの関係者と会って、散逸した沖縄の文化財を長期的な視点から探し出す方法を模索する目的で、沖縄から3人の専門家を米国に招聘(しょうへい)したいとのことだった。


 たかやす・ふじ 1943年、うるま市生まれ。68年米アイオワ州立大卒業(英文学)、2004年琉球大学大学院卒業(歴史学)。1985年から2009年在沖米国総領事館に勤務。広報文化担当補佐官として定年を迎える。03年に3回渡米し、沖縄の文化財を調査。13~20年沖縄科学技術大学院大学評議委員、11年よりぬちまーす副社長。