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近代という時代象徴 琉球史から世界史を俯瞰 山城智史<ペリーと琉球 米琉コンパクトの真実>上


近代という時代象徴 琉球史から世界史を俯瞰 山城智史<ペリーと琉球 米琉コンパクトの真実>上
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 1854年にペリーと琉球が締結した契約は「琉米協約」や「琉米修好条約」などさまざまな名称で認識されているが、米国側の原史料ではCOMPACT(コンパクト=議会の同意があれば州が外国または他州と締結できる契約の一種)として調印された記録が残っている。琉球や日本だけでなく、米国をはじめとする諸外国の史料を突き合わせて「米琉コンパクト」締結までの交渉過程を明らかにし、米国から見た琉球の姿を実証的に解明した著書『琉球をめぐる十九世紀国際関係史―ペリー来航・米琉コンパクト、琉球処分・分島改約交渉―』を刊行した名桜大学国際学部上級准教授の山城智史氏に、最新の研究成果を寄稿してもらった。

 今から170年前の1854年3月31日、ペリーと江戸幕府との間で日米和親条約が調印された。その後、ペリーは再び琉球の地を訪れ(5度目)、「琉球開港」に関する合意文書の作成・交渉を進め、同年7月11日に調印に至った。この合意文書の名称については、日本国内の先行研究及び翻訳書では琉米修好条約、琉米条約、琉米協約、琉米協定、琉米盟約などなど、今もなお統一されていない。米国の史料(ペリーの報告書や米国議会議事録)には、Compact between the United States of America and the Royal Government of Lew Chew(米国と琉球王府間のコンパクト)と記録されており、この名称で米国議会の批准を経て、大統領が公布している。拙著『琉球をめぐる十九世紀国際関係史』では、ペリーが日本とは条約(Treaty)を調印し、琉球とはコンパクト(Compact)を調印した史実に基づき、また歴史的背景・意義についてこれまでほとんど明らかにされてこなかったことから、「米琉コンパクト」という新たな名称を付した。

ペリーの目的

 そもそもペリーの日本遠征に与えられた目的は何だったのか。米国側の史料には、主に三つの役割について記録されている。一、米国船員が難破あるいは悪天候により漂着した場合の船員と財産の保護に関する恒久的な取り決めを行うこと。二、米国船舶の補給物資(食料・水・燃料)の確保、事故に遭った時に航海を続けるための修理を行うため、周辺の島々への入港許可を取り付け、また主要な島の一つに石炭貯蔵庫を設置すること。三、米国船舶が積み荷を売却または物々交換する目的で入港する許可を得ること。だが、これらの目的はあくまでも表向きのものであり、これとは別に領土拡大の意図があったとも言われている。

 いずれにせよ、ペリーの日本遠征には「条約締結交渉の相手は独立した主権国家」という制約も組み込まれており、宗主国がいるような従属国、非主権国家とは条約の調印が許可されていなかった。また、ペリーはあくまでも「交渉」する権利を有しているのみで、調印した条約が最終的な批准に至るには、米国議会での手続きを通さなければならなかった。主権国家と認められない相手と条約を調印しても、米国国内で批准が却下される可能性が高かったのである。

ペリーが本国に送ったコンパクトを調印したという報告書(1854年7月19日)(米国国立公文書館所蔵)

「独立国」を削除

 ペリーは幕府と日米和親条約の交渉の際に、琉球開港についても要求している。しかし、幕府からは琉球が「遠隔」の地にあることを理由に断られ、琉球開港を除いた形で日米和親条約が調印される。このことにより、ペリーが琉球開港の目的を成し遂げるためには、琉球を主権国家とみなし、「条約」を調印する道しか残されていなかった。その後、琉球を再訪問したペリー一行は、1854年7月8日、琉球側の代表と条約調印に関する協議の場を設ける。米国側の史料『遠征記』からは、琉球側が中国との関係を理由に、前文にある「琉球を独立国(independent nation)と認める」という表現を削除するよう求めたことが分かる。一般的に、19世紀の米国が締結した条約書の前文には条約の意義や趣旨が書かれており、その中で「between the two nations」という表現があり、その前提として双方が主権国家であることが明記されている。残された時間で琉球開港を実現するために、ペリーは前文そのものを削除して調印することを選択した。条約交渉については、琉球側の史料と突き合わせると当時の様子がより鮮明に見えてくる(「琉球王国評定所文書」「旧琉球藩評定所書類」)。

 米琉間の合意文書は全7項目からなり、主に米国船舶が琉球に到着する際の琉球側の対応義務が定められている。薪(まき)・水の販売供給、難破船の救助、尾行・監視の禁止、水先案内人の提供などなど、あくまでも米国が琉球を拠点とするための契約であった。日米和親条約と比べると、前文なし、条項形式ではなく箇条書き、双方が主権国家であることの明記なし、その違いは一目瞭然である。その後、ペリーから米国本国への報告書には、琉球と「コンパクト」を調印したことが明記されている。

「州」の規定援用

 では、なぜコンパクトなのか。拙著では、ペリーが合衆国憲法の中にある「州」の規定を琉球に援用したと結論付けた。つまり、ペリーは琉球から宗主国(中国)との関係を理由に、条約草案から「琉球を独立国と認める」という表現の削除を求められたことにより、主権国家同士の「条約」ではなく、19世紀米国において州同士、州と外国が締結する際に使われるコンパクトを琉球との交渉に援用したと考えられる。米国が琉球との合意文書をコンパクトとして認識していたという史実は、日本側の史料からも分かる。例えば、1872年・76年、米国駐日公使から明治政府への照会文として英語原文が掲載されており、「琉球処分によって米琉間のコンパクトに変更が生じるのか」と問い合わせている(『大日本外交文書』第5巻、第9巻)。この英語原文のコンパクトに対する明治政府の和訳は「規約」「現約」となっている。

 米琉コンパクトという史実を世界史の枠組みで考えると、19世紀という時代性、西洋とアジアの衝突、近代という時代を象徴する出来事であることが分かる。このことは琉球がいかに国際的な歴史を歩んできたのかを意味する。琉球の歴史の探究は日本史の枠組みを越え、近代国際関係史、米国外交史、国際法、世界史の観点から実証的な検証が求められている。米琉コンパクトの解明はまだ始まったばかりである。繰り返しになるが、なぜペリーは日本とはTreatyを調印し、琉球とはCompactを調印したのか。世界史から琉球を見るのと同時に、琉球の歴史から世界史を俯瞰する一つの事例となるだろう。

 ※「米琉コンパクト」の実証的検証については、拙著『琉球をめぐる十九世紀国際関係史』をご参照いただければ幸いである。


 やましろ・ともふみ 1978年沖縄県生まれ。南開大学(中国天津市)博士課程修了、博士(歴史学)。名桜大学国際学部上級准教授。主な論文は「米琉コンパクトをめぐるペリー提督の琉球認識」「琉球処分をめぐる李鴻章の外交基軸―琉球存続と分島改約案」など。