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調印170年 意義問い直す 歴史学を平和への光に 山城智史<ペリーと琉球 米琉コンパクトの真実>下


調印170年 意義問い直す 歴史学を平和への光に 山城智史<ペリーと琉球 米琉コンパクトの真実>下 駐日米国公使から本国への報告書。一つの文書の中で琉球とはCompact、日本とはTreatyを締結していると認識している(1872年11月6日)(米国国立公文書館所蔵)
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 1854年7月11日、ペリーと琉球の間で琉球開港に関する合意文書が調印された。その後、議会の審議を経て、55年3月9日に正式に批准・公布されている。米国側の史料には、Compact between the United States of America and the Royal Government of Lew Chew(米国と琉球王府間のコンパクト)として記録されている。一般的に、19世紀の米国が締結する合意文書の形式には、いわゆる「条約」として和訳されるTreatyやConventionの他にも、Declaration(宣言・声明)やProtocol(議定書)、Agreement(協定・合意書)などがあり、締結国や内容によって合意文書の形式を選択するのが通常である。コンパクトもその一つではあるが、米国政府が発行する米国条約集の中に、19世紀に外国とコンパクトを締結したのは琉球との1件のみである。

条約の認識

 コンパクトについて、琉球史、日本史、米国外交史からさらに米国建国史にまで研究の幅を広げると、合衆国憲法の第1条第10節第3項の「州」に関する規定として、条約とは明確に区別されていることが分かる。州はいかなる場合も条約を締結することはできないが(同条同節第1項)、コンパクトについては議会の同意があれば他州や外国と締結することができる。ペリーは日本に琉球開港を断られ、琉球からは条約草案の前文にある「主権国家」という表現を削除するよう求められた。限られた滞在時間内で琉球開港に関する合意文書を取り交わすため、米国と州の関係をそのまま日本または中国と琉球の関係に当てはめ、コンパクトの規定を援用したと考えられる。

 ペリーと琉球との合意文書については、日本の外務省外交史料館に「琉球国米国條約(じょうやく)書」として、その調印書原本が保存されている。日本側の史料から見るとこのような「条約」が琉球と締結されたかのように見える。また、日本外務省條約局編纂(へんさん)『旧條約彙(い)纂』(第三巻(朝鮮・琉球)、1934年)には、コンパクトではなくConventionとして記載されており、和訳名称を「琉球米国間ノ條約」としているが、その但(ただ)し書きとして「調印書ニハ漢、英文共條約名ノ掲出ナシ 記録ニ存スル漢文写ニハ「約條」トアリ」とある。つまり、調印書の原本にはその名称が記載されていないこと、編集の段階では英語名称が不明であったこと、これらの理由により外務省の担当者によって暫定的にConventionがあてられたと考えられる。

仏・蘭は批准せず

 しかし、米国側の史料には日米和親条約とは異なる「コンパクト」として調印・批准・公布されていることからも分かるように、外交史研究は片方の史料に依拠するのではなく、双方あるいは第三者の史料を突き合わせて史実を検証する必要がある。ペリー及び米国が琉球をどのように認識したかについては、少なくとも米国の史料にコンパクトとして記録されている史実の検証が必要である。その点で言うと、いわゆる「琉仏修好条約」(Convention)、「琉蘭修好条約」(Treaty)については、それぞれの本国で琉球を主権国家とみなして条約を締結することが問題となり、批准に至っていない。実際に、鮫島尚信駐仏公使は「仏国ト琉球トノ条約書ハ仏国政府ニテ刊行ノ条約類纂中ニモ掲記無之」と井上馨外務卿に報告している(1879年11月)。つまり、琉球と米・仏・蘭との三つの合意文書は、「条約」としては正式に締結されていないことになる。なぜ米国はコンパクトとして締結したのか、なぜ仏・蘭では批准されなかったのか、歴史の空白を埋める必要がある。

変わる研究環境

 グローバル化が進む中、平和な世界の構築へ向けて「世界史の再検証」が世界中で行われており、日本国内でも世界史と日本史を分けない取り組みも進んでいる。特に琉球の歴史には外国との交流記録が刻まれており、検証すべき史料の対象は必然的に海外にも広がる。世界中で史料のデジタル化が進み、50年前、いや10年前と比べても、研究環境・条件は大きく変わった。当時の琉球が歩んだ足跡を国際的な視点を加えて再検証する時期に来ている。米琉コンパクトの史実は、国際法の主体や主権国家論のような西洋中心史観から琉球を解き放ち、欧米とは異なる歴史を歩んできたアジア全体の世界観を解明する一つの事例となる。

 歴史とは何か。実際に起こった出来事に対して、当時のごく限られた人がその一部を記録し(第一のフィルター)、その記録の中から後世のさらに限られた人が取捨選択して研究する(第二のフィルター)。今、私たちが目にする歴史は、このようないわば「二重の濾過(ろか)装置」によって語られてきた産物である。残された記録(=史)に対して客観的に叙述することはある程度は可能ではあるが、起こった出来事(=歴)を客観的に叙述しているとは限らない。勝者と敗者、加害者と被害者、それぞれが描く歴史の様相は大きく異なる。これまでの歴史叙述が正しいかどうかは、「これまで歴史として語られてきた」ということを根拠にせず、選択された史料を見定めなければならない。新たな史料の発見や視点の創造とともに、歴史叙述は常に再検証される。

絶好の機会

 日米和親条約の調印(1854年3月31日)から170年の月日が流れた。このことは同時に、米琉コンパクト調印(同年7月11日)から170年となることも意味する。この間に日本、琉球・沖縄、米国の関係はどのように変わったのか。なぜ、ペリーは日本とはTreaty(条約)、琉球とはCompact(コンパクト)を調印したのか。今年は節目の年としてその歴史的意義を問い直す絶好の機会である。

 「なぜ沖縄なのか」、不条理な現実に直面するたび問われ続けてきた。現代に忖度しながら歴史を読み解くのではなく、歴史を明らかにすることで現代を読み解く力が求められている。歴史認識が戦争を正当化する道具に利用されている暗然たる時代において、歴史学が世界を平和へと導く光となることを切に願う。

 (名桜大学国際学部上級准教授)


 やましろ・ともふみ 1978年沖縄県生まれ。南開大学(中国天津市)博士課程修了、博士(歴史学)。名桜大学国際学部上級准教授。主な論文は「米琉コンパクトをめぐるペリー提督の琉球認識」「琉球処分をめぐる李鴻章の外交基軸―琉球存続と分島改約案」など。