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島出身生徒らの足跡 残された手紙や証言 仲程昌徳 <離島初の資料館移動展「ひめゆりと久米島」>


島出身生徒らの足跡 残された手紙や証言 仲程昌徳 <離島初の資料館移動展「ひめゆりと久米島」> 修了式の日に野田貞雄校長を囲むひめゆりの生徒たち(1944年3月)
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 ひめゆり平和祈念資料館開館35周年を記念した移動展「ひめゆりと久米島」が31日から久米島町嘉手苅の久米島博物館で開催される。離島では初めての開催となる移動展に向けて、ひめゆり平和祈念財団代表理事の仲程昌徳さんに寄稿してもらった。


 ひめゆり平和祈念資料館は、2022年10月21日から11月20日まで今帰仁村歴史文化センターで、11月26日から翌23年1月9日まで読谷村のユンタンザミュージアムで、沖縄県・(公財)沖縄県文化振興会「令和四年度沖縄文化芸術の創造発信支援事業」の補助を受け「“ひめゆり”を伝える移動展」を開催してきた。

 同展は、ハワイで行われる予定になっていた「沖縄戦・ひめゆり学徒隊の歴史を海外に伝える展示プロジェクト」が、コロナの蔓延で延期せざるをえなくなったことで、場所を沖縄本島内に代え、行われたものであり、その場所が今帰仁、読谷となったのは、両地域が「ひめゆり」と関係の深い人々の出身地であったということによるものだった。

 具体例を挙げると、今帰仁の場合は、ひめゆり学徒隊の引率者であった与那嶺松助、仲宗根政善両氏の出身地であったこと、両氏はまた、ハワイを訪問し、同地に在住していたひめゆり出身者に迎えられ懇親会を行っていたことによるものであり、読谷は、ひめゆりの塔の敷地の購入資金を寄付し塔周辺の整備に力を尽くした二世・ハリー儀間真一さんの出身地であったということによるものだった。

 それは、移動展が、ハワイでの展示会とつながりのあることを念頭においていたことの表れで、本来、中心は、それぞれに「ひめゆり学園」(※注)に在籍した生徒たちが、数多くいたこと、また動員されて生き残った生徒たちの中に資料館で活動した方々がいたことに尽きる。

ハワイでの「ひめゆりとハワイ」展の会場(オキナワンフェスティバル。2023年)
ハワイでの「ひめゆりとハワイ」展の会場(オキナワンフェスティバル。2023年)

 コロナ危機を脱した2023年9月、ハワイ沖縄連合会およびハワイ大学沖縄研究センター所長石田正人教授の協力で、念願だった初の海外展示プロジェクトの前半を終了、そして今年1月、後半のワークショップも無事終了したことで、今後の移動展をどう展開していくかといったことが浮かび上がってきた。

 「ひめゆり学園」は、本島内の生徒だけでなく、沖縄県内の各離島からの生徒たちも数多く在籍していた。そこで、離島での移動展の企画が生まれてきたが、その最初をどこで行うか、ということがあった。

 離島での移動展を行うにはそれなりの予算を組まなければならない。コロナで入館者が激減し、運営資金の借り入れを行ってどうにか平常通りに開館している状況で、離島開催を行うのは厳しいものがあったが、ここで断念してしまうのは惜しいという声が多く、続行ということになった。今回、幸運なことにオーキッドバウンティ基金から多大な寄付があり、それを運営資金の一部にあてることができた。

 1945年当時、久米島出身の生徒が、何名在籍していたのか、今のところ、はっきりしない。わかっているかぎりでいうと、学徒隊動員者9人、うち死者5人、ほかに在校生1人が死亡している。

 彼女たちのなかには日記や手紙、そして証言を残していたのがいた。その手紙のなかに、1月22日の大空襲について触れたのがある。同日の空襲については、西平英夫の『ひめゆりの塔 学徒隊長の手記』に詳しいが、西平とまったく同じ状況下にあったことがわかるもので、米軍の侵攻が、そこまで迫って来ていたことを、如実に語るものとなっている。

 手紙を残した生徒は、第二外科勤務につき、南部への撤退後は、外科壕(ごう)を転々とし、6月19日早朝、山城丘陵へ行く途中怪我(けが)し、海伝いに国頭突破を試みるが断念、その後行方不明になってしまった。その生徒が学園生活の一部始終を伝える手紙を残していたのだ。

 戦時下、学園の生活や家族のことを案じて書かれた手紙は、その時代の雰囲気をよく伝えるものになっていた。亡くなった生徒が残した手紙もそうだが、生き残った生徒の証言にも、次のようなものがある。

 6月21日、荒崎海岸で起こった出来事は、宮城喜久子の『十六歳の戦場 ひめゆりの少女』でよく知られているかと思うが、その近くにいて「危機一髪のところ、手榴弾を抜くチャンスを逸し、私たちは生き残ることが出来ました」と、いうのがある。

 生き残ったのはまさに偶然としかいいようがないのだ。そのような女子学徒たちの酸鼻を極めた戦場をどう伝えるか、私たちに課された課題である。

 久米島の戦は、大田昌秀の『久米島の戦争』にある通りである。その戦は、島の人々を恐怖のどん底に落とし込んでいった。それが、戦争の終わったあとまで続いた。

 久米島での「ひめゆり」の展示会は、高等教育を受けるためには島を出ていかざるをえなかった生徒たちの本島での体験が中心になるが、生徒たちの足跡をたどりながら、久米島での戦闘を、改めて胸に刻み、平和をかみしめる機会にしてほしいと願っている。

 会場を提供していただいただけでなく、忙しい業務のなかで、多くの労力を割いて下さった久米島博物館職員一同に感謝申し上げる。

 ※注「ひめゆり学園」は沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の愛称

仲程昌徳 ひめゆり平和祈念財団代表理事

 なかほど・まさのり 1943年、テニアン島生まれ。元琉球大学教授。2015年からひめゆり平和祈念財団理事長。主な著書に『沖縄の戦記』(朝日新聞社)、『ひめゆりたちの春秋』(ボーダーインク)など。

久米島博物館31日から開催 ワークショップも

 移動展「ひめゆりと久米島」は31日(金)から6月30日(日)まで久米島町嘉手苅の久米島博物館で開催される。開館時間は午前9時から午後5時まで。月曜は休館。

 今回は久米島出身生徒に焦点を当てた特別展示も制作した。開催初日の31日はオープンセレモニーとひめゆり平和資料館の普天間朝佳館長によるギャラリートークがある。翌6月1日は同資料館の前泊克美学芸員が展示の理解を深めるためのワークショップを行う。ワークショップは定員20人で申し込みが必要。申込先はひめゆり平和資料館(電話)098(997)2100。メールhimeyuri1@himeyuri.or.jp