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<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>116 組踊における話芸(6) 田里のマルムンを発展


<聴事(チチグトゥ)を求めて 組踊初演300年>116 組踊における話芸(6) 田里のマルムンを発展 「大川敵討」の泊=2002年3月10日、県立郷土劇場
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 組踊における「マルムン」の創始が田里朝直であることは矢野輝雄の指摘にあったが、再考すると、田里の作品すべてにおいて「マルムン」的な役が登場し、組踊の世界の中で身分の低い者が散文を話すという形式を確立したことが分かった。そして「マルムン」が用いる散文体には「笑い」を含むものと、そうでないものをすでに田里が創作していた。したがって、組踊における「話芸」という視点で作品を見る場合には、散文体で表現されるものには「笑い」とそれ以外も含まれると考える。

 田里の創始した「マルムン」という形式は、まとめると次の4点である。

 (1)マルムンは前段と後段をつなぐ役割を持つ。
 (2)マルムンは主人公に重要な事柄を伝える者である。
 (3)散文体を話すのは組踊の世界において身分の低い者である。
 (4)散文体での表現には「笑い」を含むものと含まないものとがある。

 これら田里がその作品で示した形式は、後の組踊作品に継承されていく。そして田里の作よりも発展していくのである。

 組踊において「マルムン」と言えば「大川敵討」の「泊」である。「大川敵討」は1800年の冊封のために創作されたと考えられる。この1800年は、田里朝直が躍奉行をした1756年の次の冊封である。「大川敵討」を創作した久手堅親雲上は、田里の生み出した「マルムン」という役について先に挙げた(1)~(4)をすべて含んだ上で、田里の作品よりも倍以上の長さの詞章を創作し、「マルムン」という役を発展させたと言える。次にその詞章をかいつまんで見てみよう。

 まゝてひしんさあ ちゆのいそけは、むゝたしかに 村原のひややすか、しかつ と見覚のなひらぬ、先口ふてさくてむだう

 これは、泊が村原に呼び止められた時の詞章である。この部分はすべて泊の独り言となっている。組踊における詞章のほとんどは対話である。このように独り言として「マルムン」が詞章を述べるのは「義臣物語」の「夜廻り」と同趣向と言える。この詞章に続いて次のような詞章が続く。

 あゝいきやいは兄弟のう うちへたてのあか、これや 余りこは返事やつさあ、やすかかんのふも珍らしひ事や、なひらぬ、むゝあゝ、満納の子や打殺さつて、あゝいたわしい事

 一重線は現代のシマクトゥバで言う「イチャリバチョーデー」である。そして相手の言葉を破線部で「クファフィジ(お堅い返事)」と「笑い」の要素をにじませるが、点線部では谷茶城で起こった重要な事件について村原に語っている。泊は一つの詞章の中で「笑い」を含む詞章と含まない詞章を持っているのである。

 (鈴木耕太、県立芸大芸術文化研究所准教授)