1944年8月、当時4歳の照屋恒さん(84)=那覇市泊出身=は、母シゲさん=当時(30)=と姉美津子さん=同(7)=と3人で、疎開する学童らと輸送船「対馬丸」に乗りました。米潜水艦に撃沈され、母と姉は亡くなりました。救助された照屋さんは鹿児島、大阪、宮崎と転々としました。現在、対馬丸記念館(那覇市若狭)で対馬丸事件の語り部に取り組んでいます。首里中学校2年の饒平名桔梗さん(14)、同1年の宮里晴太さん(12)が話を聞きました。
《照屋さんは1940年1月15日に那覇市泊で生まれた後、父・規善さんを含め、4人家族の全員で大阪で暮らしました》
父は大阪府関目町の軍事工場で働いていました。母はいわゆる専業主婦でした。赤紙(軍隊への召集令状)が父に届きました。父は本籍地から出征するため先に沖縄へ戻りました。中国へ出兵したと思います。
家族は数カ月間の帰省のつもりで、沖縄の祖父母の家に身を寄せました。
《対馬丸は44年8月21日に児童や一般疎開者など1788人を乗せて長崎へ出航し、22日夜に撃沈されます。照屋さんは16時間漂い船で助けられました。犠牲者は1484人(氏名判明分)に上ります》
44年7月7日、米軍の攻撃でサイパン島の日本軍が壊滅しました。政府は沖縄を含む南西諸島から高齢者や子ども、女性を九州や台湾へ疎開させることを決定しました。
姉美津子は泊国民学校に通っていました。沖縄が戦場になるということで、母と姉の3人で対馬丸に乗って、長崎から大阪に戻ろうとしました。乗船後、学童疎開の姉は対馬丸の船首側に、一般疎開の母と私は船尾側にいました。
対馬丸は22日午後10時12分ごろ、米軍の魚雷攻撃4発を受けて沈められました。
当時4歳なので断片的な記憶ですが、私は寝ぼけ眼をこすり、母に手を引っ張られて甲板に上がりました。大勢の人がいました。「早く海に飛び込め。飛び込んだら船から離れろ」と声が聞こえました。母に手を引かれて10メートルの高さから海に飛び込みました。対馬丸からはボート、いかだ、浮きの代わりになるものが投げ込まれました。船が沈む時に渦を巻き、巻き込まれると、おぼれて死んでしまいます。縄が十字に巻かれた、しょうゆだるに、母と一緒にしがみつきました。
辺りが静まりかえった頃、母は「しっかりつかまっていて。お姉ちゃんを探してくるから」と言って、私から離れていきました。夜の海で大勢の中から姉を探すなど、通常では考えられないです。
台風が発生していて、波が高く上下していた感覚があります。16時間の漂流の間、いろんな人が私の面倒を見ていたようです。
やがてカツオ漁船・開洋丸の通信長である奥田一雄さんに救助されました。弱っていた私は通信室で寝かされたそうです。奥田さんは救助した70人ほどを乗せるため、積んでいたカツオを捨てたそうです。開洋丸は鹿児島に向かいました。
※続きは10月16日付け紙面をご覧ください。