うるま市石川で生まれ育った石川咲子さん(90)=旧姓・佐次田=は10歳、弟の佐次田秀美さん(85)は5歳で、それぞれ沖縄戦を体験しました。石川収容所も含めた体験を城前小6年の豊里咲花さん、保村樹奈さん、石川中3年の友寄舞晴さん、伊波涼華さんが聞きました。
〈咲子さんは1934年5月に7人きょうだいの次女として、秀美さんは39年10月に三男として生まれました。長女は他界し、長男は皇居などを警護する近衛兵として沖縄を離れていました。母のツルさんは幼子や祖父祖母の世話などで、父・秀盛さんも戦争に備えるため、防空壕を造るなど忙しくしていました〉
咲子さん 私は幼少期から家事を手伝っていました。稲刈りや豆腐作りなど、朝から晩まで働いてました。時折、幼い弟の秀美の世話をしていたことを覚えています。戦争が近づくにつれ、学校に通う時間がなくなっていきました。
秀美さん 1944年ごろでしょうか、父が防空壕を屋敷内に造っていました。すぐ上の兄は中学生にもならない年齢でしたので、家族8人が入る壕をおそらく父は一人で造っていたでしょう。近所同士で助け合っていたと思いますが、相当の苦労だったでしょう。自宅を含め、周囲にある比較的大きい屋敷は、日本軍が駐在で使うようになっていました。家の一番座は日本兵が使い、質の良い食べ物は日本兵にあげていました。
〈44年10月10日、米軍が沖縄本島をはじめ、南西諸島に空爆を実施しました。いわゆる10・10空襲の後も、米軍機による爆撃や機銃掃射がありました。佐次田さん家族は防空壕に避難します〉
咲子さん 1日分の食料を朝に用意して、壕へ避難しました。夜間空襲があった翌朝、家へ戻ると、扉を開けていた部屋の一面に、埋め尽くすように飛行機から撃たれた弾が転がっていました。今でも思い出すとぞっとします。父が「この状況では、もっと頑丈で深いところに逃げないと命はない」と話し、石川伊波の伊波城跡にある壕に移ることにします。持って行けない物は家近くに埋め、隠しました。しかし、伊波城跡に移ったその日にも空襲がありました。
壕の前に大きな爆弾が落ちて爆発しました。両親は「ここも危ない」と判断し、父たちがあらかじめ下見に行っていた、石川岳にあるカーラングヮーという谷間に移ることにしました。伊波城跡には1日しかいませんでした。
秀美さん 当時5歳の私は何が起きているのか分かっていませんでした。壕から外に出ようとして、親にしかられたことを覚えています。
秀美さん 1945年4月、カーラングヮーへ移動する時、父は板を4枚持って行きました。板で雨をしのいだり、座ったりするために使うためです。敵に空から見つからないよう気を配り、裏の筋道など険しいところを歩くのです。しかも傾斜があって難儀でした。幼い私は嫌がって「死んでもいいから、歩きたくない」と泣いたといいます。
咲子さん 優しかった母が「こんな時にわがまま言うな」と弟をしかったのを覚えています。道中では日本兵の遺体が転がっているのを2度見ました。腐敗が進んで、見るのも怖い状態でした。
※続きは9月19日付け紙面をご覧ください。