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叶座・嘉手納第二東映 戦前から続いた劇場経営 <沖縄まぼろし映画館>169


叶座・嘉手納第二東映 戦前から続いた劇場経営 <沖縄まぼろし映画館>169 「中部主要都市商工案内」(1960年沖縄通信社発行)より。地図の左が北(読谷向け)。左下に「安森書店」と「第二東映」がある(嘉手納町教育委員会提供)
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 前回、嘉手納ロータリー沿いにあった「嘉手納第二東映」と思われる写真を掲載した。提供者の故・町田清さん(1930年生まれ)によれば、経営者は実父の町田宗俊だが、劇場名は覚えていないという。

 記事掲載後、もう一人の経営者・安森盛廉の孫である安森盛雄さんに話を聞いた。

 祖父・盛廉は戦前、嘉手納大通り(現在のロータリー付近)で文具店を営みながら、「叶座」(かのうざ)という芝居小屋も経営していたという。「字嘉手納大通り誌」掲載の出納簿に28年の支出として「芝居保護料 安森盛廉」の記載があることから、この時点で「叶座」は存在していたと思われる。当時は軽便鉄道の終点駅や県道、比謝橋付近にはヤンバル船の港もあり、交通の要所としてにぎわっていた。沖縄のチャップリン・小那覇舞天も、同地で歯科医院を営みつつ「叶座」で芸を披露した。

 やがて、沖縄戦で大通りに住む人々は散り散りに。米軍は土地を接収して嘉手納ロータリーを造成。住民は47年2月頃に帰郷を許された。盛廉はロータリー北西側で「安森書店」を開店し、49年には北東側で「嘉手納劇場」も始めた(後に現在の北区コミュニティーセンター近くに移転)。次に書店の隣に劇場を建設。これが後の「嘉手納第二東映」だ。54年の航空写真に酷似する建物が写っていることから、その頃には存在したことが分かる。なお、映画製作・配給会社の「第二東映」は59年創設なので、54年当時の館名は違うはずだ。

 62年生まれの盛雄さんも、前述の町田清さん同様に館名は覚えていないが、記憶に焼き付いている出来事があるという。火事だ。

 火事は盛雄さんが小学校就学前に発生。映画館の隣「安森書店」屋上からメラメラと燃える様子を目撃した。ボヤで済んだが、これをきっかけに閉館したそうだ。66年6月30日付の琉球新報に掲載された上映情報を最後に「第二東映」の名を見られなくなるので、その頃だろう。

 取材後、「かでな未来館」を訪ねた。学芸員のTさんに「第二東映」の情報を求めたところ、後日、写真が2枚見つかったとの連絡を頂いた。それは、清さんから提供された写真と同じ建物ながら、一つは「嘉手納館」、もう一つは「嘉手納オリオン座」の館名が掲げられていた。これらの写真のおかげで「第二東映」以前の館名の変遷が分かった。詳細については次回、改めて紹介したい。

 (平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
 (當間早志監修)
 (第2金曜日掲載)