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真栄城徳松と平和館(宮古島)(2) 移転前に館名を変更?<沖縄まぼろし映画館>181


真栄城徳松と平和館(宮古島)(2) 移転前に館名を変更?<沖縄まぼろし映画館>181 本文で触れた宮古琉映館の写真
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 戦後の宮古島で初の常設映画館建設を決意した真栄城徳松は、1949年頃、本土へ修理に向かう米軍船に忍び込んだ。傍らには生薬の海人草(かいにんそう)や米国製たばこ、かつお節が入ったドラム缶10本。これを神戸で売りさばくことで建設資金を得た。

 次に建築資材を手に入れるために夜汽車で一路、鹿児島へ向かった。現地で金を横領されるも、残った資金で木材を確保。徳松は運搬の手はずを整えた後、横領犯の部下を人質として島に連れ帰った。資材到着までの間、徳松は劇場建設予定地の西里大通り沿いで露天上映を行った。これは横領犯の部下が「映写機を扱える」と言うので始めてみたのだが、初日から押すな押すなの大盛況。島の人は娯楽に飢えていたのだ。

 そして50年12月23日、ついに常設映画館「平和館」が落成した。式典では米軍民政官や群島知事が列席。高校生のバンド演奏、児童や青年会、劇団による余興が繰り広げられた後、『きけ、わだつみの声』(50年)が上映された。「平和館」の成功を受けて、次々とライバル映画館が登場したが、『ひめゆりの塔』(53年)や『健児の塔』(同年)といった沖縄戦映画やヒット作を上映することで乗り切った。

 徳松は劇場を息子の和夫に任せて政界に進出。63年に旧・平良市の市長に就任した。一方で和夫は57年、現在のホテルオアシティ共和の裏手にコンクリートの建物を新築、劇場を移転させる。「ひらら―村・町・市―行政97年」によると、移転後に名称を「宮古琉映館」に改めたとあるが、「最近の琉球 沖縄写真案内」(57年)に掲載の「宮古琉映館」とされる写真を見ると建物が木造で、場所の表記も移転前の西里大通り。実は移転前に改称していたと思われる。

 時代が下り92年3月24日。同日の宮古毎日新聞に「内部改装のため休館致します」との告知が掲載された。その後、営業した情報がないので、そのまま閉館したのだろう。筆者が跡地を訪れてみると、そこは駐車場になっていた。隣でダンスクラブを経営している男性が劇場のことを覚えていた。

 「鉄筋の大きな建物で2階席もあった。『悪魔の手毬唄』(77年)を見たけど、客は2~3人しかいなかった」

 (平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
 (當間早志監修)
 (第2金曜日掲載)