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港劇場 消えた村の名を冠する <沖縄まぼろし映画館>184


港劇場 消えた村の名を冠する <沖縄まぼろし映画館>184 小禄の森口公園の高台から那覇軍港向けに撮影された写真(上原隆昭、高良広輝提供)
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 小禄に特化した情報発信サイト「うるくニッポン放送」を運営する高良広輝さんより、「ペリー劇場」(那覇市山下町)が写った写真を提供いただいた。撮影者は小禄のカメラ店「たかちよ商会」の上原隆昭さんである。

 写真は小禄の森口公園の高台から那覇軍港向けに撮影。左下の大きな三角屋根の建物が劇場である。右上のこんもりと盛り上がった森は現在の奥武山公園の世持神社あたりだが、左側にあるはずの野球場が見当たらない(1960年完工)。奥武山の手前が湿地帯のように見えるので、57年頃の埋め立て前に撮影したのだろう。ということは、写真は「ペリー劇場」(56年頃~)の前身「港劇場」の可能性が高い。

 「港劇場」を説明する上で重要なのが「みなと村」だ。47~50年のわずか3年間だけ存在した自治体で、那覇市の山下町と奥武山、旧・真和志村の楚辺、壺川、松尾を区域とした。

 村誕生の翌年、48年12月20日付うるま新報に「みなと村に劇場」と題された記事が登場。知事の許可を得て近く開園予定だと伝えている。また、49年2月18日の沖縄民政府議事録にも「みなと村演劇場設立許可」の記述がある。

 営業記録としては、51年2月15日付うるま新報に、劇団「新生座」の第1回巡回公演予定の記事が掲載。52年1月23日付琉球新報では『ひめゆりの塔』上映スケジュールに載っている。さらに54年3月13日付琉球新報の映画配給チェーン「琉映」の広告に「港劇場」の名が登場、「琉映」傘下だったことが分かる。

 廃村後もその名を使い続けた「港劇場」だが、数年後には「ペリー劇場」に改称した。その後も芝居や映画、地域の行事が盛んに行われるが、その話は次回にしたい。

(平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
(當間早志監修)