宮古島における戦後初の常設映画館は1950年12月23日開館の「平和館」とされる。その次に開館したといわれているのが「菊水館」。経営主は後に旧平良市の市長となる伊波幸夫だ。場所は平良西里の重信ビル(JTA宮古営業所)と隣の駐車場。同島出身の沖縄芝居役者、故・平良進さんの証言によると、幸夫は料亭「菊水」を営んでおり、劇場にその名を付けたという。
開館時期は資料により異なる。「沖縄商工名鑑1957年版」だと創立は50年となっており「平和館」と同年になる。これが正しいとすると「菊水館」は当初、芝居小屋だった可能性がある。一方、「平良市史 第一巻 通史編II 戦後編」では、「51年8月から日本映画が正式に輸入されるようになった(著者注:同年2月が正しい)のを機に菊水館(木造露天)を建て映画興行をはじめた」とある。
「菊水館」は後に「宮古沖映館」となるのだが、その時期も資料ごとに違う。前述の「平良市史」では「~三年後(54年)に沖映館を建設した」とあるが、同書の年表では「52年12月5日 宮古沖映館新築落成式催される」と記載されており矛盾が生じる。また「琉球新報」では同年7月25日号の沖映チェーン広告に「宮古沖映(旧・菊水館)」とその名が登場している。以上を踏まえると、51年8月までに「菊水館」が建てられ、52年7月までに「宮古沖映館」に改称、同年12月5日に劇場新築…と考えられる。さらなる調査が必要だ。
「宮古沖映館」の写真は複数ある。「きらきらひらら 市制50周年記念誌」には『人妻椿』(56年)の看板が掲げられた写真が掲載されている。また本稿の写真では、沖縄出身歌手・仲宗根美樹のヒット曲を元にした『川は流れる』(62年)の看板が掲示されている。どちらも鉄筋コンクリートながら外観が変わっていることから、56~62年の間に建て替えまたは改装されたのだろう。
65年3月に配給会社の沖映が映画興行より撤退して劇団「沖映演劇」を立ち上げると、「宮古沖映館」も「沖映演劇」の公演を行うようになった。やがて「宮古沖映館」は「まいなみ劇場」と名称を変える。大嶺可代の論文「1960年代の電話帳にみる沖縄諸地域における劇場・映画館の変遷(増補版)」によれば、72年7月の電話帳に劇場名が登場するので、その頃までに改称したのだろう。閉館時期は不明だが、地元の方々に聞くと80年代前半に成人映画を上映していたそうだ。
(平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
(當間早志監修)
(第2金曜日掲載)