夜中に男2人が大立ち回りした相手は<112年前の沖縄の怖い話「怪談奇聞」>6


夜中に男2人が大立ち回りした相手は<112年前の沖縄の怖い話「怪談奇聞」>6
この記事を書いた人 Avatar photo 熊谷 樹

9月に入りましたが、まだまだ沖縄は暑い日が続いています。夏の風物詩といえば怪談。蒸し暑い夏の夜を怪談で少しヒンヤリ過ごしませんか。

明治から大正に改元した1912年8月5日、琉球新報で突如連載が始まった「怪談奇聞」。読者に投稿を呼びかけ集めた〝実話系〟怪談は、約1カ月34回にわたって連載されました。当時の琉球新報社には毎日2、3通の投書が届くほどの人気コーナーでした。

1912年の沖縄は、明治時代から続く風俗改良運動、旧慣改革で日本への同化政策が進められ、近代化と差別の間で揺れ動いた時代でした。「琉球王国」の名残を色濃く残した「沖縄」のリアルな怪談を紹介します。

連載第6回目は男二人が夜中に大立ち回りを演じる話です。

文章は当時の表現を尊重していますが、旧字や旧仮名遣いは新漢字、ひらがなに変換し、句読点と改行を加えています。

怪談奇聞(六)
幽霊の早身代わり

私が他人から聞いた怪談を読者諸君に紹介しよう。

頃は今より十年前のこと。所は那覇上の倉で二人の田舎者が辻よりの帰りがけ、ちょうど寺屋敷の小路に差し掛かるや、突然白い衣を着、髪を振り乱した一人の女が気味悪い笑い声を残してその前を横切った。時刻二時頃、女の通る理由はない。例え通るにしても白衣をまとい、しかも下体はかすかにして分からぬことは実に不思議であると二人は考えた。

戦前の西武門前通り。西武門の年代は不明(那覇市歴史博物館提供)

その中の一人は気の弱い奴で、はや腰を抜かし「前へは行かれぬ。ここで天明を待とう」と言うた。一人は「ナーニ、構うもんか。歩いて災いがあったら喧嘩して通るばかりだ」と言って無理に男の手を引いて前へ歩いた。少し歩くと前の女は再び現れ「二人に頼みがあるが聞いてくれ」と言った。

しかし気の弱い奴は「何、幽霊の依頼なんか聞かん。あっちへ行け」と足を上げて蹴った。いきなりその姿は消え、猛烈に狂える一匹の小豚が突進してきた。二人は死に物狂いとなって、こうもり傘を打ち振りながらコレと奮闘すること半時間くらい、一人の男は勇を鼓して小豚の頭上目がけて、一打ち強く殴りつけた。すると今まで戦った豚はどこへやら、地一面に蛍火のようなものが散った。

二人は進退窮まれりて、暫時は(しばらくの間は)呆然としてあっけにとられた。しかし今は油断すべき場合ではないと着物の裾をひっからげ、後をも見ず一目散に西武門のほうへ走り出した。ところが今の春華園のところにもまた、一人の女が指をくわえて立っている。よく見れば前の女と全く似ている。「さてはこいつはあくまでも我々を苦しめるつもりだな。よしよしこっちにも考えがある」と言いながら、気の弱い奴は手ぬぐいで目を縛り、見えなければ大丈夫と、連れの男に手を引かれて通ろうとした。

現在の西武門あたり。交番名にその名残がみられる=8月14日、那覇市久米

時にかの女が声をかけ「私は家は泊の〇〇という娘であるが、今より三年前用事のため慶良間島へ刳り舟で行く途中、不幸にして難船にあい、身は既に溺死を遂げて、死骸は慶良間の淋しい海岸に葬られているから、早く両親の所へ移してくれ、と兄弟某に告げてもらいたい」と頼まれた。

二人は今更のように驚きながらも再び女を見つめ、「そんなことなら喧嘩なんか止めればよかった」とつぶやきながら去った。早速泊の某宅に行って家族を起こして、斯様斯様と話した。家族の面々も今夜は三年以来音信のない姉妹の事を夢に見て寝られず、田舎者二人の話を聞いてうち驚き、初めて娘某が溺死したことが分かったということである。(見聞生)

次号掲載 一日橋で怪しげな女学生に会う

投書されし人々へ 大中ヒラの怪火(柳外子)は一座、笑話に過ぎず、それにしても秀逸でない。遺憾ながら没書します。君の筆は凄い。話を一つ書いて寄こしたまえ。きっと面白くできようと思います。大評判の娼妓の霊(巍生)若狭町福木の上の火玉(天笠人)は見合わせます。

投書歓迎 本社怪談奇聞係宛てのこと

「怪談奇聞」(六)=大正元年八月十日付琉球新報三面

怪談の舞台 西武門(にしんじょう)

現在の那覇市久米にあった中国系住民の集落「久米村」を東西に二分する久米村大通りの北口付近を指します。久米村大通りと若狭町大通りの接点になっていました。南口は現在の泉崎橋陸橋付近に当たり、久米村大門(クニンダウフジョー)と称されました。南北にのびる久米村大通りは竜身にたとえられ、竜の頭は大門、竜の尻尾は北門とされました。西武門は北門(ニシジョー)の意味で、久米村の北門に由来します。

(次回は9月6日に掲載)