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爆発的人気だったムームーに「ちゅらさん」の紅型柄 沖縄ブームと関わる「江島商店」の歴史<まちぐゎーひと巡り 那覇の市場界隈2>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 観光客で賑(にぎ)わう市場本通りを歩いてゆくと、通りの名前が市場中央通りに切り替わる。このあたりにはアロハやムームーを扱う店が軒を連ねており、目に鮮やかな風景が広がっている。

約54年間、営業している江島商店の店頭に立つ江島とも子さん=那覇市牧志

 ここで「江島商店」を営む江島とも子さんは、1934年、久米島に生まれた。学校を卒業後、とも子さんは那覇に出る。平和通りにあったレストラン「アサヒ」で数年間ウェイトレスとして働いたのち、いとこのお姉さんから「仕事を手伝わないか」と誘われ、洋裁の仕事を始めた。

 「あの当時はね、洋裁で作ったものがよく売れてましたよ。まだ物がない時代だから、晴れ着というより普段着。沖縄柄の生地を仕入れてきて、それを裁断して、縫子さんにブラウスを作らせる。出来上がった洋服を持って新天地市場に行くと、午前中には皆売れてました。それでまた布を仕入れて、裁断して、縫子に持たせて。今振り返ると夢みたいに思うほど、とにかく忙しかったですね」

 とも子さんは22歳で結婚し、翌年に長女を出産した後も洋裁の仕事を続けた。子供に手作りの弁当を持たせる余裕もなく、出来合いのものを渡していたことを、今でも申し訳なく思っているという。その働きぶりを見て、近所に暮らす金城さんという女性から相談を持ちかけられる。

流行

 「金城さんは当時、ガーブ川の上でお店をされてたんですよ。お店と言っても、今みたいにちゃんとした建物じゃなくて、川の上に板を渡して日用品を売っていたんです。あるとき、隣の場所が空くことになって、そこで洋服を売るために『うちの手伝いをしなさい』と私が採用されたんですね」

 ガーブ川に改修工事が施され、1965年に水上店舗が完成した数年後、金城さんから店を譲り受けて「江島商店」をオープンする。

 この時期には、沖縄の衣料事情に関する大きな変化が生まれつつあった。それは、ムームーの流行である。1967年8月2日の琉球新報朝刊には、「愛用者増えるムームー」と題した記事が掲載されている。

子ども用のムームーも売られている店内=那覇市牧志の江島商店

 《衣生活が洋風化したため、土地の気候にあわない衣服を着るようになりましたが、暑い夏を、きちっとした服装ですごすのはどうもらくではありません。大正末期には「アッパッパ」が流行しました。ソデやスソが短く、はだの露出度が多く、からだにゆるやかにそう衣服です。いま静かな人気を集めているムームーもその条件にぴったりした衣服です》

 祖国復帰に向けた機運が高まり、沖縄らしさとは何かが見つめ直されていた時期に、伝統的な芭蕉布ではなく、ムームーが注目を集めたというのは印象的だ。ムームーが爆発的な売れ行きを見せたのは、沖縄が返還された1972年である。当初は地元客に売れていたムームーだが、海洋博が開催された頃には観光客も買っていくようになったという。

「ちゅらさん」人気

 「江島商店」で扱う商品に変化が生まれた時期がもう一つある。2001年にNHK連続テレビ小説『ちゅらさん』が放送されると、観光客が紅型柄の商品を買い求めるようになったのだ。特に人気だったのは、主人公の国仲涼子が身につけていた紅型エプロンで、現在でも買っていくお客さんが少なくないという。

 「もう85歳になってるから、遊んで暮らしてもいいんだけど、ボケ防止に店を続けてるんですよ」。とも子さんは笑いながらそう話してくれた。「毎日の楽しみは、やっぱり売れること。商売人はね、『今日はどうしたら売れるかね』と考えるから、それが頭の体操になるんですよね」

市場中央通りに面し、販売しているかりゆしウエアやTシャツなど=那覇市牧志の江島商店前

 ただ、6月16日に第一牧志公設市場が一時閉場を迎えると、市場中央通りの環境は一変した。

 「閉場してからずっと、シャッターが下りたままになってるから、通りが暗いのよね。そうすると、歩いてきたお客さんも『ああ、こっちはもう廃(すた)れてるんだ』と思うから、どんどんお客さんが減っちゃって。夏はもっと売り上げがあるはずなのに、冬の売れ行きぐらいまで落ち込んだんです」

アーケード問題

ユニークな標語を日替わりで掲げている江島商店の軒先

 そこで立ち上がったのが、公設市場の向かいで商いをしてきた市場中央通り第一アーケード会の面々である。通りに活気を取り戻すべく、那覇市に掛け合って公設市場の軒先を借りる契約を結び、8月16日から商品を並べるようになった。通りは次第に賑わいを取り戻し、不法投棄や立小便といった問題も改善されたという。

 だが、商品の陳列は11月6日で終わることになった。公設市場の解体工事が、11月14日から始まることになったのだ。

 「今一番気がかりなのは、アーケードの問題ですね」と、とも子さん。「この場所は西日が差し込んでくるので、商品が日に焼けるんですよ。80年代の頃に、通り会の皆でお金を出し合ってアーケードを作ろうという話になったんです。アーケードが完成すると、雨降りの日は国際通りからどんどんお客さんが流れてくるようになって。ガーブ川の上で商売してた頃も、雨で川が氾濫すると、水に濡れた商品を割引して売るということで、すごく賑(にぎ)わったんです。その時代も、アーケードが出来てからも、雨が降ると売り上げが上がってましたね」

 市場の解体工事にともない、那覇市は通り会にアーケードの撤去を求めている。アーケードの再整備を目指し、市場中央通りアーケード協議会が結成され、現在も那覇市とのあいだで折衝が重ねられている。

(橋本倫史、ライター)

 はしもと・ともふみ 1982年広島県東広島市生まれ。2007年に「en-taxi」(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動を始める。同年にリトルマガジン「HB」を創刊。19年1月に「ドライブイン探訪」(筑摩書房)、同年5月に「市場界隈」(本の雑誌社)を出版した。


 那覇市の旧牧志公設市場界隈は、昔ながらの「まちぐゎー」の面影をとどめながら、市場の建て替えで生まれ変わりつつある。何よりも魅力は店主の人柄。ライターの橋本倫史さんが、沖縄の戦後史と重ねながら、新旧の店を訪ね歩く。

(2019年11月22日 琉球新報掲載)