【渡嘉敷】大城正光さん(83)=当時8歳=は1945年3月27日夜、日本軍の指示を受け、家族5人で阿波連集落から北山(にしやま)を目指した。23日の突然の空襲から避難生活が始まり、身も心もボロボロになっていた。「米軍に捕まったら何をされるか分からない。それなら早く死にたい」。大城さんは絶望しながら家族と共に歩を進めた。
28日、たどり着いた北山は「集団自決(強制集団死)」が起こった後で、辺りは死体だらけだった。死にきれずのたうち回る人や、必死で死のうと不発弾から取り出した火薬を飲む人がいた。艦砲弾が死体を吹き飛ばし、飛び散った肉片が大城さんの顔や体にくっついた。肉片をはがしながら「早く殺してくれ」という思いが強まった。
北山には叔父がいた。大城さんが「殺してくれ」と頼むと、叔父は弟の邦夫さん=当時4歳=の首を絞めて殺した後、大城さんの首を絞めたが、死ねなかった。叔父は大城さんを棒でめった打ちにした。大城さんが目覚めた時には叔父は首をつって死んでいた。
「アンマー」。体を引きずりながら母親を呼ぶと、「うー」っという母親のうめき声が聞こえた。何とか母親の元にたどり着き、再び眠りについた。目が覚めると米軍の船に乗せられて座間味に向かっていた。手当てを受け、後に兄、姉、母と再会することができた。
大城さんの右耳には、北山で殴打された時の傷痕が残っている。戦後75年、大城さんは自身の体験談をほとんど口にしてこなかった。「今は生きていてよかったと、つくづく思う。どんなにつらくても戦争はやってはいけない。思い出すのはつらいが、今はみんなに話さないといけないと思う」。右耳の傷跡を触りながら語った。
(嘉数陽)