兄も犠牲、戦争憎い 奥村敏郎さん 米軍上陸(15)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
「平和の礎」に刻まれている奥村(旧姓・奥浜)菊郎さんの名前

 奥村敏郎さん(85)=沖縄市=の兄、菊郎さんは1930年、浜比嘉島で生まれました。両親はポナペ島におり、2人は別々の親類に預けられました。菊郎さんは首里の県立一中に進みます。

 《兄と私は年の差もあり、家も離れて暮らしていたので、兄の顔も、一緒に遊んだ覚えもないのです。兄が一中に入学していることも知りませんでした。》
 米軍上陸前、菊郎さんは浜比嘉島に戻ってきました。周囲は島にとどまるよう説得したそうです。
 
 《祖母たちは戦争が激化し大変だから首里に戻らないよう言ったそうです。しかし、いつのまにか兄の姿は見えなくなりました。兄は正義感が強く、日本軍は負けないと信じていたのでしょう。》

 菊郎さんがその後、どこで命を落としたのか分かっていません。「糸満市摩文仁の海岸で石を拾い、骨壺に入れて墓に納めました」と敏郎さんは語ります。
 「平和の礎」には浜集落110人、同じ浜比嘉の比嘉集落70人の名が刻まれています。地上戦のあった津堅は261人です。
 《あの戦争は憎いです。生き残った私たちは兄に報いるため懸命に供養しなければなりません。「命どぅ宝」と声を大にして、反戦平和を言い続けましょう。》
 兄を失った敏郎さんの思いです。
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 奥村敏郎さんの体験は今回で終わります。次回から島袋文雄さんの体験を紹介します。