空襲で家失う 島袋文雄さん 米軍上陸(17)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
「泊塩田之跡碑」が立つ那覇市の前島中公園

 県立一中の生徒で、日本軍の陣地構築や勤労奉仕に追われていた島袋文雄さん(90)=那覇市=は1944年10月の「10・10空襲」に遭遇しました。この日、島袋さんは那覇港ふ頭で荷役作業をしていました。

 「あの日、那覇港で作業をしていると、上空を飛行機が飛んできました。演習かと思ったら、そこへやってきた将校が抜刀して『敵機襲来』と叫びました。驚いて、現在の製粉会社(沖縄製粉)の所の地面に穴を掘って隠れていました。がたがた震えてね」

 島袋さんは那覇駅(現在の那覇バスターミナル周辺)から県立二中(現在の那覇高校)を経て、実家のある前島に戻ります。家族は無事でしたが、米軍の空襲で家が焼けました。
 「前島に戻ると母とおじいさん、おじ、おばがいました。周囲は塩田で隠れる場所はなかったんです。その後の空襲で家に火が付き、中にあった教科書が焼けぬよう、あたい小(ぐゎー)(屋敷内の畑)に投げました」

 家を失った家族は浦添市沢岻で家を借り、避難生活を送るようになります。
 県立一中の校舎は「武部隊」と呼ばれた第9師団が接収し、一中の生徒は首里城内にあった首里第一国民学校(現在の城南小学校)に通います。「国民学校の児童の多くは既に疎開していました」と島袋さんは語ります。