西海岸に米軍艦 島袋文雄さん 米軍上陸(18)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
沢岻から見た浦添市大平付近。西海岸の海も見える。

 「10・10空襲」で那覇市前島の家を失い、家族で浦添市沢岻に避難していた島袋文雄さん(90)=那覇市=は1945年も弾薬運びや陣地構築の作業に追われていました。米軍上陸が刻々と迫っていました。

 「繁多川での弾薬運搬は大変だった。わずか14、15歳の子に弾薬を運ばせたんです。沢岻では石部隊(第62師団)の壕掘りをやっていました」
 
 3月23日、米軍の空襲が始まり、艦砲射撃が本島を襲います。
 「農事試験場がある与儀のサトウキビ畑(現在の与儀公園周辺)に向かう途中、南部から響く艦砲射撃の音を聞きました」

 米軍は3月29日以降、現在の八重瀬町港川への艦砲射撃に加え、海岸沿いを偵察しています。上陸に見せかけ、日本軍を南部におびき寄せる陽動作戦も展開しました。島袋さんは混乱する日本軍の姿を目撃しています。

 「南部から慌てて中部に引き返す兵隊を見ました」
 米軍上陸直前、県立一中の2年生以上で鉄血勤皇隊が組織されました。1年生にも志願者がいました。島袋さんは家族と共に沢岻の壕に避難しました。

 4月1日、米軍は沖縄本島の中部西海岸に上陸します。島袋さんは沢岻の高台から浦添、宜野湾の西海岸を見ていました。
 「浦添の城間から宜野湾にかけて軍艦が浮かんでいました」