砲撃で壕落盤 辛うじて脱出 島袋文雄さん 米軍上陸(19)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
島袋さんが避難した壕があった浦添市沢岻の住宅地

 1945年4月1日に米軍が沖縄本島中部西海岸に上陸した後も島袋文雄さん(90)=那覇市=の家族は浦添市沢岻の壕に避難していました。そのころ、一緒に避難していた叔父を病気で亡くします。中国の戦場で負傷し、沖縄に引き揚げてきた元軍人でした。

 沢岻では苦しい避難生活を送りました。「食べ物はイモばかりでした。壕にいるとシラミがわくんですよ。つぶすのが大変でした」と語ります。

 宜野湾の嘉数や浦添の前田で日本軍と激戦を交わした米軍は沢岻に迫りました。「砲弾で集落はみんな破壊され、はげ山になってしまいました」

 島袋さんが避難していた壕も米軍の砲弾で破壊されます。「4月29日、天長節のころだった」と記憶しています。砲撃で壕が落盤し、命からがら土砂の中から抜け出しました。

 「もう逃げるので精いっぱい。北部に逃げることはできないので、南部に逃げることにしました」と話します。南部への避難を決めた時、日本軍も南部へ撤退することになるとは予想していませんでした。

 島袋さんは母静さんや祖父らと共に儀保、当蔵、識名、南風原町津嘉山を通って真壁村(現在の糸満市)に向かいます。途中、首里城付近から炎が上がっているのを目撃しました。
 「守礼門の近くを通ると、その向こう側が燃えているのが見えました」と島袋さんは語ります。