無料診断は「足の踏み場もないほど混雑」 住民を動かした「寄生虫ゼロ作戦」報道とは


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
第1次寄生虫ゼロ作戦で検査を受ける小学生=1965年4月4日、金武村

 沖縄の公衆衛生の歴史はマラリアやフィラリア、寄生虫症など風土病との闘いの歴史だった。

 1965年から県内各地で行われた「寄生虫ゼロ作戦」では、琉球新報社を含む沖縄のマスコミ各社が広報活動に大きく寄与した。

 新型コロナウイルスが世界的に拡大する今、歴史を振り返り、改めて新聞が果たすべき役割について考える。

「寄生虫ゼロ作戦」を前に、検査受診を呼び掛ける1965年4月1日付の本紙朝刊

 寄生中保有率が39・9%(1965年)と高かった沖縄。経済損失は年間2800万ドルに上ると当時の本紙で報道されている。

 同年4月4日から財団法人沖縄寄生虫予防協会が中心となり、「寄生虫ゼロ作戦」がスタートした。各地を巡回し、検便や駆除指導を行った。それまでのマラリア、フィラリアの根絶計画は行政主導で行われてきた。

しかし同作戦は民間が主導し、行政がそれをバックアップする形で展開された。

第1次寄生虫ゼロ作戦の検査会場。多くの人が詰め掛けた=1965年4月4日、金武村

無料診断

 

 当時、住民の寄生虫への関心は低かった。そこでマスコミの広報力を生かし、住民に参加を呼び掛ける作戦がとられた。同作戦の本部には琉球新報社、ラジオ沖縄、沖縄テレビの県内マスコミ各社が名を連ねた。

 

 琉球新報は連日紙面を通じ、寄生虫が原因とみられる貧血や栄養低下の恐れ、作戦の意義を報道し、参加を呼び掛けた。

 

 金武村(当時)屋嘉、伊芸の住民無料診断から作戦がスタートすると「(屋嘉、伊芸の)両公民館には八百人の区民が押し寄せ、足の踏み場もないほど混雑、診察団は休む暇もなく午後六時すぎまで診察した」(65年4月5日付本紙朝刊)という。

 

 同年6月末まで行われた第1次作戦では、目標の5万人を大きく超える12万人の検便申し込みがあり、診察で重症患者を多数発見した。寄生虫ゼロ作戦は離島などにも範囲を広げ、69年の第9次まで実施された。

吉田朝啓さん

住民の協力

 

 作戦は大きな成果を上げ、引き続き行われた駆虫事業により、寄生虫はほぼ姿を消した。長年、沖縄で公衆衛生に携わってきた元琉球衛生研究所所長の吉田朝啓さん(88)は「風土病の防圧事業では、住民の協力が何よりも大切だ」と話す。住民の8割が協力したとしても、残り2割が応じず、病の源が残ってしまえばそこから再び感染が拡大してしまうリスクが潜む。吉田さんは「マスコミが住民啓発に果たした役割は非常に大きかった」と評価する。

 

 コロナ禍を食い止めるには、同様に住民の意識向上が必要だと考える。「マスコミの大きな責務として、県民に正しい知識を伝えてほしい」と期待した。  (荒井良平)