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体験者「敵は日本兵だった」 美化、肯定に危機感 <「戦争死」に向き合う>① 住民虐殺・下


体験者「敵は日本兵だった」 美化、肯定に危機感 <「戦争死」に向き合う>① 住民虐殺・下
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 「最後のころはもう、敵は日本兵でした」。75年前を振り返り、金城トミ子さん(88)=糸満市=はうつむいた。

 1945年5月、米軍の進攻に伴い、日本軍は南部に撤退した。金城さんは地域住民と共に現在の糸満市真栄平にあるアバタガマに隠れていたが、日本兵に追い出された。逃げ込んだ先の墓からも追い出された後、自宅庭に掘った壕に身を隠していた。そこでも日本兵が手りゅう弾を投げ付け、追い出した。

 はだしで逃げ回り、至るところに住民や日本兵の膨れた遺体があった。銃弾と砲弾が頭上を飛び交う中、別の壕に着いた。投降を呼び掛ける声が聞こえてきたが、壕の出入り口に日本兵が短刀を持って座り、すぐに出られなかった。米軍の砲撃が始まり、ガス弾が放たれた。やがて米軍に保護され、現在の名護市大浦の収容所に移された。

 後に父親は自宅近くで日本兵に首を斬られ、殺されたと聞いた。日本兵に手りゅう弾を投げ付けられた時のけがが原因で、おいは大浦の収容所で亡くなった。

 戦後、真栄平に戻った住民が遺骨を集めた。数千体に上り、このうち600体が真栄平住民だったという。一家全滅は47世帯で、全世帯の18・4%に上った。住民は「南北の塔」を建てた。

 「軍隊は住民を守らない」。沖縄戦で県民に刻まれた教訓だ。国は住民を死に追いやったが、その史実をゆさぶる出来事が過去に起きている。82年、高校の日本史教科書検定で、日本軍による住民虐殺の記述が削除された。99年、県平和祈念資料館の沖縄戦を再現する模型図案で、幼児の口封じを命じる日本兵から銃を取り除き残虐性を薄めるような変更案が練られた。体験者は戦争の実相が伝わらないと懸念した。

 ことし5月15日、玉城デニー知事は沖縄全戦没者追悼式の規模を縮小し、会場を平和の礎近くから国立沖縄戦没者墓苑で開催する方針を発表した。のちに方針を翻すが、県内の有識者は「殉国死」の肯定に結び付くと懸念し、国立墓苑での追悼式を撤回するよう要請した。

 県に再考を求めた「沖縄全戦没者追悼式のあり方を考える県民の会」の共同代表の一人、むぬかちゃーの知念ウシさんは「県の追悼式が戦死者を顕彰し、戦争を肯定する流れに変わる一歩にならないか。その危機感があった」とあらわにした。体験者に聞き取りをしてきた沖縄大学非常勤講師の玉城福子さんは「戦争を美化せず、ありのままに伝えるという視点が、いつでも引っ張られる可能性がある」と史実の歪曲を懸念した。

 毎年慰霊の日の前日、金城さんは日本兵に殺された親族を弔うため平和の礎を訪れている。国立戦没者墓苑に足を運んだことはほとんどなく、県方針に疑問を抱く。「県が主催するなら、県が造った平和の礎のところでやればいいのに。おかしいね」

 75年前の沖縄戦で、何の罪もない家族が殺された憤りは消えることはない。「国が何もかもいいようにしてしまうから、住民は大変だ。戦争といえば、憎いのは日本、日本人でしたよ。沖縄、悔しいよ、本当に」

 (沖縄戦75年取材班)