沖縄戦から75年。新型コロナウイルスの感染防止を理由に、県は沖縄全戦没者追悼式の会場を国立沖縄戦没者墓苑に変更する方針だったが、のちに元の沖縄平和祈念公園の広場に戻す考えを示した。有識者らは国の加害者としての立場に触れ、国立墓苑での追悼式は戦争による死の美化につながると指摘、県の平和創造の理念や遺族の感情に沿わないと県の対応を疑問視した。沖縄戦における「戦争死」、追悼の内実を考える。
1945年6月、現在の糸満市真栄平。当時13歳の金城トミ子さん(88)=糸満市=は暗闇の中、母の玉城ウシさん、姉、おい、めいの9人で自宅に設けた小さな壕に身を隠していた。
「出ろ」。日本兵が穴の外から命じた。「ここは女と子どもだけ。行くところもありません」と母が答えた。すると日本兵は壕入り口を覆っていた畳をめくり、手りゅう弾を投げ入れた。手りゅう弾は入り口近くの水がめに当たり、爆発した。母はとっさにかごを盾にしたが、左薬指が吹き飛んだ。水がめの破片がおいの額に飛んだ。
「どうせ殺されるのだから、舌をかんで死のう」。姉の言葉に金城さんも舌を必死にかんだ。住民を追い詰めたのは日本兵だった。
45年5月下旬、第32軍は8割の兵力を失っていた。しかし、「最後の一兵まで」戦うと決め、摩文仁に撤退した。本土決戦の準備が整うまでの時間稼ぎだった。南部は軍隊と十数万人の避難民、住民が雑居状態になった。
6月19日以降、真栄平一帯には敗残兵が多数逃げ込んだ。兵力で圧倒する米軍に包囲される状況の中、日本兵は守るべきはずの住民を壕から追い出したり、住民の食糧を強奪したりした。スパイと疑いを掛け、投降しようとした住民を殺害したこともあった。日本兵が金城さんらに手りゅう弾を投げ付けたのも、その時期だ。
夜、日本兵らは最初、隣家の敷地に押し入り、住民に壕から出るよう指示した。隣家の女性は「フイ、フイ(はいはい何ですか)」と答えた後、日本兵に刀で首をはねられたという。
金城さんの姉は隣家の壕にいたが、助けを求めて実家の壕に逃げてきた。追い掛けてきた日本兵が手りゅう弾2発を投げた。1発目は水がめに当たって爆発した。2発目は入り口に積まれていた荷物が防いだ。
隣家の子ども3人が斬られ、苦しんでいた。腹から腸が出ていた。いとこも足を斬られて倒れていたが、助けられなかった。金城さんの家族は暗闇の中、必死に逃げた。(沖縄戦75年取材班)