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「死なんどーっ」生死を分けた少女の叫び 壕の中「強制集団死」住民も巻き添え<「戦争死」に向き合う>②


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
75年前、糸満市米須のカミントウ壕で起きた「集団自決(強制集団死)」について語る大屋初子さん=3日、糸満市

 1945年6月20日ごろ、糸満市米須のカミントウ壕。100人以上の米須の住民がびっしりと身を寄せ合っていた。米軍が攻撃を始めた。入り口をふさぐようにいた日本兵の自決が引き金となって、住民が次々と手りゅう弾の信管を抜いた。「バン、バン、バン」。大屋初子さん(84)=糸満市=は「我んねー死なんどー、死なんどーっ」。死にたくないと泣き叫んだ。

 沖縄戦における組織的戦闘の終盤で、米須一帯は日本軍の拠点の一つとなった。米軍は日本軍の陣地壕を一つ一つ破壊し、19日にはカミントウ壕に迫った。汚物の悪臭が漂う壕内で住民らは震えていた。

 「デテコイ、デテコイ、着物、食べ物タクサンアル」。20日ごろ、米軍が投降を呼び掛けた。静けさを挟んだ後、突然砲弾1発が撃ち込まれた。出入り口付近の日本兵2人が自決した。「『捕虜』になるくらいなら死んだ方がましだ」。住民らも次々に自らや家族を手に掛けた。

 防衛隊員の父は手りゅう弾を持っていた。祖母らは「早くやって」と父をせかした。日本軍から「米軍に捕まれば男は八つ裂きにされ、女は強姦(ごうかん)されて殺される」と聞かされていた。初子さんは「死にたくない」と泣き叫んだ。踏みとどまった父は初子さんを抱え、祖母や妹と共に遺体を踏み越えて壕の外に出た。その後、米軍に保護された。カミントウ壕では集落の住民58人が亡くなった。初子さんの叫びが生死を分けた。

東京都千代田区にある靖国神社。国は「集団自決」で亡くなった住民を積極的に戦闘協力した「戦闘参加者」としての身分を与え、同神社は合祀する

 75年前、皇民化教育の下、日本軍は投降を絶対に許さなかった。陣地構築作業などに住民を動員した半面、軍事機密が知られることを恐れた。「軍機を語るな 沖縄縣」の標語が県内に掲げられた。戦場で追い詰められた住民は命令や強制、誘導によって殺し合った。石原昌家沖縄国際大名誉教授(平和学)は「軍官民共生共死の指導方針のもと、沖縄戦で住民は死を強制された。日本軍に『死に追い込まれた』、いわば『日本軍に殺された』のも同然だ」と指摘した。

 「強制された死」という「集団自決」の実相は戦後75年の間で揺さぶられ、ねじ曲げられた。06年度教科書検定で、高校の日本史教科書における「集団自決」に関する記述から、日本軍の「強制・関与」の記述が削除された。

 戦後、政府は「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の適用に当たって、住民の「集団自決」を軍事行動、命を落とした住民を「戦闘参加者」と位置付け、軍人同様に合祀(ごうし)者名簿を靖国神社に送った。石原氏はその経緯を説明した上で「『強制死』を国に命をささげた『殉国死』に書き換え、たたえることだ」と指摘した。石原氏は背景に愛国心を刷り込み、戦争をする国にする意図があるとみる。

 カミントウ壕での強制集団死を生き延びた大屋さんは、住民は死を望んではいなかったと言い切り、さみしげな表情を見せた。「罪もない人たちを巻き添えにするのが戦争だ。命はお金に換えられない。戦がなければ、同級生もいっぱいいたはずだ。みんな亡くなった」

 (沖縄戦75年取材班)