目の前に現れた米兵に驚き、死を覚悟して捕らわれ、トラックに乗せられて収容所へ。多くの沖縄戦体験者がたどった道です。八重瀬町の比嘉由照さん(82)から体験記が届きました。
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比嘉さんは1938年2月、玉城村(現南城市玉城)仲村渠で生まれました。米軍上陸時は7歳です。体験記はこう始まります。
《私が7歳になるとすぐに米軍上陸があり、戦争に巻き込まれた。母が率いる3人の弱者(私、祖母、弟)の彷徨(ほうこう)を忘れることができない。》
沖縄戦当時、由照さんは35歳の母ハルさん、77歳の祖母カマさん、2歳の弟盛徳さんと暮らしていました。
のどかだった仲村渠の集落にも日本軍の陣地が造られ、きな臭い空気が漂うようになりました。44年10月の10・10空襲は住民に衝撃を与えます。
由照さんは集落内の幼稚園に通っていました。空襲の日の夕、那覇の市街地から立ち上った真っ赤な炎が天を焦がし、仲村渠の路地まで明るくなったのを記憶しています。
家族らは隣集落の垣花にある自然壕シチナクブに避難します。この壕は仲村渠住民の避難地に決まっていました。その後も空襲警報が鳴るたびに仲村渠集落からシチナクブに逃げました。
仲村渠の平和な暮らしが消え去ってしまいました。
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戦火を逃れ、ガマや山中に身を隠していた住民が米軍に捕らわれた日の体験を紹介します。