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死後も国の支配下なのか…国立墓苑に転骨「殺された人は納得しない」<「戦争死」に向き合う>③


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
沖縄戦直後の地域住民による遺骨収集について語る大城藤六さん=2日、糸満市真栄平

 県民約12万人と日米の兵士約8万人が亡くなった沖縄戦から1年後、糸満市真栄平。遺骨が歩き慣れた道や溝などあちこちにあった。高校1年生だった大城藤六さん(89)も地域住民と共に遺骨を集めた。「戦後の仕事始めは遺骨収集だった」。集落近くのアバタガマに納め、慰霊塔を建立した。同様に県内各地で造られた納骨所は1955年までに188カ所に上った。

 56年、日本政府は沖縄を統治していた米国と交渉し、費用を出して、大規模な遺骨収集と「総合納骨堂」建設を琉球政府に委託した。翌年、戦没者中央納骨所が那覇市識名に完成した。日本政府、琉球政府、沖縄遺族連合会が中心となって遺骨収集を進めた。

 63年には三者が協議し、県内各地の納骨所を整理統合し、識名の中央納骨所に遺骨を移す「転骨」を決めた。本土の遺族会から「遺骨が依然野ざらしのままだ」「(県内)納骨所が粗末」と批判があった。

南部一帯から収集した遺骨の収骨式=那覇市識名の戦没者中央納骨所(1977年12月24日)

 日本政府の意向で転骨は進められたが、拒み続けた集落もあった。真栄平もその一つ。当時の区長らは「(真栄平の行方不明者は)みんなここに入っている。身内のお墓から出したらいけない」と拒んだ。大城さんによると、琉球政府は「靖国神社を見なさい。死んだのは沖縄だけじゃない。勝手なことするな」と迫り、区長を幾度も叱責(しっせき)した。

 ことしの慰霊の日の沖縄全戦没者追悼式を巡って、県は新型コロナウイルスの感染防止のため式典縮小に伴い、会場を一時、国立沖縄戦没者墓苑に変更すると決めた。大城さんは「県が決めた場所に行く」としつつ、「国に虐げられて死んだ人たち、殺された人たちは納得しないだろう」とも話す。真栄平では、集落で立てた南北の塔でも毎年慰霊祭を行い、集落で亡くなった人たちを追悼している。「大切なのは自分たちの集落で弔うということだ」。「国に虐げられて死んだ人たち、殺された人たちは納得しない。生き抜いた僕ら体験者の本音でもある」。大城さんは違和感を吐露した。

 国立墓苑への会場変更の波紋は、先の戦争に対する認識を問う事態になった。遺骨収集ボランティアの具志堅隆松さんは、身元不明の遺骨のDNA鑑定を国に求め、家族の元に返す活動を続けている。今回の変更について、沖縄戦で亡くなった人たちが死後も国の支配下に置かれることの肯定につながるとみる。「国は自らを正当化するため、死者を利用していないか」と指摘した。

 「(複雑な思いは)ないとは言えないが、遺骨を国立墓苑に納めるのは行政として当然だ」。かつて県援護課の霊域管理係だった新垣幸子さん(75)が振り返った。72年から遺骨収集を担当し、現場に駆け付けたこともあった。「袋に納めた遺骨のからからと鳴った、その音が耳から離れない」

 74年12月、3万5千体を納めた「魂魄の塔」から約1カ月で264袋に詰めて焼骨し、中央納骨所に移した。やがて中央納骨所が狭くなり、79年に国立沖縄戦没者墓苑が造られた。新垣さんは強調した。「衛生や管理の問題があった。人道上、遺骨の扱いをどうするかだ」

 戦争で命を奪われた人々をたたえる靖国神社とは関係ないと言い切った上で、問い掛けた。「戦争では右向け右の教育だった。日本全体が同じ流れの中、抵抗してもつぶされた。そうならないよう平和な世の中をつくるため、人としてどうあるべきかだ」

(沖縄戦75年取材班)